エイベックスの事業本部アドバイザーを務めていた寺林晁(てらばやし・あきら)さんが28日午後1時13分、肺炎のため亡くなった。77歳だった。通夜、葬儀告別式は家族葬として営まれ、後日、お別れ会を行う予定。

寺林さんは、中森明菜の育ての親として知られ、ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)で、デビュー前から8年間、明菜の制作宣伝を統括してきた。

1972年(昭47)に洋楽系のイベント制作会社「ウドー音楽事務所」に入社、その後、79年にワーナー・パイオニアに転職した。中森明菜以外には矢沢永吉をはじめ、CHAGE&ASKA、少年隊、森高千里などのデビューにも尽力した。

87年には、日本レコード協会が創設した「日本ゴールディスク大賞」で、寺林さんが担当した中森明菜とマドンナが邦洋楽の最優秀賞を独占、さらに少年隊が最優秀新人賞を受賞するなど、上位3冠を独占して業界の大きな話題になった。

明菜に関しては、独立後にワーナーを離れてからも関係が続き、寺林さんが94年にマーキュリーミュージックエンタテインメント(現ユニバーサルミュージック)の邦楽宣伝部長に就任後も、相談に乗っていたという。

その後、明菜がガウスエンタテインメントとの間でトラブルが生じ、同社の社長から「業界追放」を訴えられたが、02年に寺林さんが執行役員を務めていたユニバーサルミュージックと契約し、寺林さんプロデュースによるカバーアルバム「歌姫」を発売。同年、14年ぶりにNHK紅白歌合戦に再出場を遂げ、「飾りじゃないのよ涙は」を熱唱した。

その一方、寺林さんは松田聖子のソニー・ミュージックエンタテインメントからユニバーサルミュージックへの移籍にも動き、その移籍第1弾となった「あなたに逢いたくて」は、ミリオンヒットとなり聖子の代表曲にもなった。

寺林さんは14年にユニバーサルを退社。明菜も体調不良から本格的に復帰したものの、関係者によると「明菜は寺林さんのプロデュースを希望していた」と言われる。その後、エイベックス・エンタテインメント・レーベル事業部のアドバイザーに就任し、最近は「明菜をもう1度手掛けたい」と意気込んでいた。