林家ペーさん(83)とパー子さん(77)の自宅が、9月19日に火災にあった。当日はポカスカジャン大久保ノブオ(58)のライブが夜にあって、あご勇さん(68)と並んで見ていたのだが、ステージ前の話題はもっぱらペーさんとパー子さんの心配だった。
東京のお笑い界に生きる者にとって、林家ペーさんは日本テレビの伝説の番組「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」の1989年(平元)の第1回放送で初代王者に輝いたレジェンド。栄光の唐草ジャケットの袖に初めて手を通した“偉人”だ。大久保もあごも「お笑いウルトラクイズ」の出演経験者。記者も毎回のようにロケ取材に行き、なんなら“水車拷問会見”の回には出演までしている(笑い)。
子供の頃に、埼玉の実家のそばに初代三平さんのお母さんが住んでいたこともあって、三平さんの弟子のペーさんとパー子さんは子供のころに直に見た貴重な芸能人だった。そんな思い出話をしたのは93年のこと。これまた日テレの伝説の番組「進め!電波少年」の企画から生まれたアイドル電波子(でん・ぱこ)とパー子さんがアイドルユニット「パーコパコ」を組んで「ただ抱きしめるだけの愛で悲しませないつもりなんて」という曲でデビューする時だ。レコーディングを取材したのだが、金魚鉢のようなスタジオの外で、ひたすらペーさんとしゃべりながら終わるのを待った。
当時のペーさんといえば「有名人の誕生日暗記」。あらゆる有名人の誕生日をバラエティーで披露して、周囲の人々の度肝を抜いた。そんなペーさんから会社にいる記者に電話がかかってくるようになった。「○○の生年月日を教えて」。日刊スポーツ文化社会部の壁には「林家ペーさんから電話があったら、つべこべ言わずにタレント名鑑で生年月日を調べて教えてあげてください」などと書かれた張り紙がされるようになった。
そんななじみのペーさんから、実は火事の2日前に電話が入っていた。後に判明するのだが、出演するイベントのことで頼みがあったのだという。だが、折あしく記者の10年もののガラケーは、来年3月いっぱいの寿命を前に満身創痍(そうい)で電話がつながらなくなっていた。火事の報を受けて会社支給のスマホで電話をしたのだが、その番号は凡百の中の1つ。夕方になって折り返しをいただいたのだが、移動中で取り損ね、またつながらなくなってしまった。
その後はライブを楽しんだのだが、ペーさんの電話を取り損ねたのが気になってビールを飲む気になれない。「35年、“ペー担”としてやってきたことがなんであるか確かめに来ました」と、ライブ終わりに火事現場のペーさんの自宅に向かった。住所は30年以上も毎年送り合っている年賀状のデータがパソコンに入っている。深夜0時近くに到着すると、ペーさんは火事について語ってくれた。
2日後の21日の浅草演芸ホールの夜席にはパー子さんも連れて現れて、火災の詳細について話してくれた。ここ数年、パー子さんと会うことがなかったのだが、まずは命が無事、あの甲高い笑い声も健在とあってホッとした。
取材は浅草演芸ホールの3階の楽屋で行われたのだが、いかんせん狭い。奥に押し込まれた結果、ぺーさん、パー子さんの隣でメモを取る、まさかの“スリーショット”がライバル紙の紙面で実現してしまった(笑い)。ただ1つ残念なのは、当日に着ていたアロハがピンクでなく地味な紺色だったこと。でも、後ろには、元ペーさんのマネジャーだという有名な女性記者も写っていて、いい記念になった。
フジテレビ、中居正広氏、とんねるず……長いこと記者をやっていると、いろいろな担当をこなしてきた。還暦を過ぎると懐かしい人の名前を聞いても、それが訃報だったりすることが多い。びっくりして、そして少しホッともした林家ペー、パー子夫妻の火事騒動だった。【小谷野俊哉】



