アジアきってのエンターテインメントシティーとなったマカオ。ショッピングやシアター観賞などあらゆるレジャーが楽しめるコタイ地区は、今日も多くの旅行者でにぎわっています。その一方で、半島部に目を向ければ、4世紀にわたる歴史が生み出したポルトガル風情が息づいているのも、この街の大きな魅力。そんな歴史地区は、ポルトガルだけでなく、実は日本とも深い関係があるのをご存じでしょうか? はるか昔にあった日本とマカオとの交流に思いをはせながら、石畳の上を散策してみましょう。【取材・構成 芹沢和美】

マカオと日本の縁…天正遣欧少年使節団も滞在

天正遣欧少年使節がポルトガルから持ち帰った活版印刷機
天正遣欧少年使節がポルトガルから持ち帰った活版印刷機

 マカオを訪れたことがない人でも、「聖ポール天主堂跡」の写真を見たことがある人は多いはず。ガイドブックや旅行パンフレットなどでよく目にする、マカオのシンボルでもある世界遺産だ。建物は3度の火災に遭い、現在は天主堂の正面壁1枚を残すだけとなっているが、ここは、かつて日本人が深く関わった歴史の舞台でもある。

 1582年に長崎を出航し、ポルトガル国王に謁見(えっけん)し帰国した天正遣欧少年使節の4人の少年(伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノ)も、長い航海の途中でマカオに立ち寄り、ここに長期滞在している。4人は帰国後、九州・天草の神学校で学んだ。このとき、彼らがポルトガルから持ち帰った最新の活版印刷機で印刷した本が天草で出版されると、たちまち大ベストセラーになったという。そのときに使われた印刷機の精巧なレプリカは、「マカオ博物館」に展示されている。

 

 その後、マルティノはキリシタン追放令を受けて再びマカオへ渡り、生涯、司祭として活動しながら日本語の書籍を出版した。天主堂の正面壁をくぐると、外のけん騒とは世界を分けるようにして、ひっそりと地下納骨堂がある。ここに眠るのは、16世紀に長崎で殉教しマカオに運ばれた日本人キリシタンたちの遺骸だ。ネームプレートには、彼らのクリスチャンネームも刻まれている。

江戸時代の弾圧描いた最新映画「沈黙」に登場

聖ヨセフ修道院聖堂には宣教師フランシスコ・ザビエルの右腕の骨が残る
聖ヨセフ修道院聖堂には宣教師フランシスコ・ザビエルの右腕の骨が残る

 17世紀になると、江戸幕府のキリスト教弾圧も激しくなり、多くの日本人キリシタンがマカオへ逃れた。17世紀の史実に基づいて書かれた遠藤周作の歴史小説「沈黙」の冒頭にも聖ポール天主堂は登場し、そこから壮大な物語が紡がれている。「沈黙」は巨匠マーティン・スコセッシが映画化し、日本でも今年早々に公開され、話題となった。

 さらに、マカオと日本との絆を思わせる世界遺産が、ここから歩いて10分ほどのところにある。日本でキリスト教史を切り開いた宣教師フランシスコ・ザビエルの右腕の骨が残る「聖ヨセフ修道院及び聖堂」だ。なぜ、ザビエルの骨は日本でもなく、故郷スペインでもないマカオにあるのか。日本での布教を終え中国大陸上陸をめざしたザビエルは、志半ばで、大陸とマカオの間にある上川島で病没。その後、右腕の骨は布教活動を熱心に行った日本へ送られたが、キリスト教弾圧が激しい国での安置はかなわず、マカオに授けられたのだ。ザビエルの魂も、マカオに逃れた日本人キリシタンと同じように、異国の地で十字を切り続けている。

 信じるものを禁じられた時代に生きた日本人たちの思いは今、海を隔てたマカオで息づいている。彼らの軌跡をそこかしこに見るマカオの旅は、きっと、忘れがたいものになるはずだ。