投げたことよりも、走った記憶が強く残る上宮時代で忘れられない出来事がある。1年夏の合宿のことだった。黒田はこの日も監督の山上烈から「走っとけ」と言われた。黙々と走る。日が傾いても、日が暮れても、全体の練習が終わっても、走った。合宿中は監督も合宿所に寝泊まりする。黒田は消灯になるまで走り続けた。それが4日続いた。

食事はランニングコースの近くまでチームメートがこっそり持ってきた。消灯後にスコアボードの下に倒れ込むように眠り、そして起床時間の朝6時前には走りだした。そしてまた一日中、走った。

黒田 景色が変わらないから時間が全然過ぎない。日の傾きでしか分からなかった。

ただ走るだけで練習が終わった。チームメートは全体練習のウオーミングアップで外野付近をランニングする。黒田とすれ違うときに「酸っぱい臭いがした」と同学年の溝下進崇は振り返る。最長4日、食事と睡眠は何とか取っていたが、風呂には1度も入っていなかった。

合宿期間中のある日。1学年上の先輩の母親が、その先輩と黒田を合宿所から連れだし、自宅で風呂に入れてくれることになった。先輩の母親が黒田の自宅に電話すると「タクシー代は支払いますので、うちの子は合宿所に帰してください」と母靖子は黒田を突き返すようにお願いした。黒田は合宿所に戻り、また走りだした。この夜の出来事は翌日には上宮の全部員に知れ渡り、今でも伝説となっている。

黒田 うちの母親ならそう言うだろうな、と予想はできた。(親類の)おじさんやおばさんからも「信念を貫き通す人だった」と聞いていた。家でも厳しかった。愛情のある厳しさだったように感じる。父親には野球の厳しさを教えてもらった。母親には人間的な厳しさを教えてもらった。

溝下も黒田の母親の記憶が鮮明に残っているという。「家に泊まりに行ったり、合宿中にご飯を作りに来てくれたりした。厳しいなという印象。黒田にはもちろん言うけど、分け隔てがない。僕たちにも言わないといけないことは言ってくれていた」。筋が通っていた。

黒田は1年秋からベンチ入りするようになった。投手としての潜在能力を買われていた部分もあるが、それ以上に同期で投手だった西浦克拓と溝下がそれぞれ野手としての能力も高く、野手として出場していたことが大きかった。投手枠が空いていたことでベンチ入りしたものの、なかなか公式戦で登板機会は巡ってこなかった。

メンバーには入っても、走らされる毎日は続いた。それでも音を上げない。その精神力には両親の強い影響があると、当時コーチだった田中秀昌は感じていた。「忍耐強い生徒だった。それはなぜかと言われたら、絶対にお母さんだと思います。肝っ玉のお母さんで、あのお母さんの下で小さいころ育っている。今があるのは、お母さんのしつけだと思う」。過酷な練習にも耐える精神力。のちに男(おとこ)気と呼ばれる強い信念を持った思考の源流は、母親にあった。

ただ、走り続けられる精神力は、エースへと駆け上がる向上心にはつながらなかった。そこには同学年のライバルの存在と、黒田の優しい性格があった。(敬称略=つづく)【前原淳】

(2017年12月15日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)