最後のプレーは空振り三振だった。3-0の9回2死二塁、上野学園(東東京)・赤坂諒投手(3年)が駒込を抑え、8強進出を決めた。

「長い歴史があって、最後の試合。勝って終わりたかった」。神宮第2球場で行われる夏の高校野球ラストゲームを飾った。

還暦近い時を終えようとしている。1961年(昭36)完成。前回の東京五輪の3年前だ。神宮球場だけでは試合消化が難しくなり、建設された。翌年の62年には早速、夏の高校野球都大会を開催。神宮球場と並び、東京の高校野球に欠かせない場所となる。それも、今秋が最後。来年は東京五輪・パラリンピックのため、春から使用できない。五輪後に取り壊され、秩父宮に代わる新ラグビー場が建設されることになる。

「面白い球場でした。手作り感があり、アットホーム。近代野球にはついていけないかも知れませんが」

穏やかに語るのは、03年から7年あまり、第2球場の場長を務めた柴広一さん(59)。73年からゴルフ練習場を併設。一塁側内野席があるべき場所に、打ちっ放しのレーンが並ぶ。外野後方には高さ40メートルもの鉄塔が打ち込まれ、防球ネットを張る。球場なのか、打ちっ放し場なのか。一瞬、分からなくなる。ただ、ここほど、グラウンドが近い球場も珍しい。観客席はネット裏だけ。選手たちの息づかいまで聞こえてきそうだ。売店も1つだけ。両翼は91メートル、中堅は116メートル。こぢんまりだからこその一体感がある。

手書きのスコアボードがいい。「コールドがない試合でした。20点までしか準備してなかったら、部下が『点数が足りません』と駆け込んできた。急いで、その場で書かせました」。結局、36点まで入った。選手名も職員の手書き。日本画用の貝殻が原料の絵の具を使い、当番制で用意する。「鈴木」「田中」など、よくある名前は使い回すが、基本的には試合が終われば水で洗い落とす。「第2から羽ばたいた選手は多い。神宮大会でダルビッシュ選手も投げました。彼のボードは消さずにおけばよかったですね」と笑った。早実・清宮(現日本ハム)の高校1号本塁打も第2で生まれた。

神宮球場が兄なら、第2は弟。つぎはぎだらけの人工芝は兄のお下がりだ。「弟でも、神宮は神宮なんですね。むしろ、ファンの方がそう思ってくださる。『第2は聖地。良い球場にしてください』とお手紙を、よくいただいた」。左翼ポール後方には、完成間近の新国立競技場が見える。最後の夏が終わり30分もたたないうち、いつものように、ゴルフボールを打つ音が響いていた。【古川真弥】

◆上野学園・小川貴智監督 選手に「第2の夏最後と思って見に来る方もいる。結果よりできることをやろう」と伝えた。感慨深い。

◆駒込・金丸健太監督 2年前の春、第2の試合でうちが9回に同点本塁打。お客さんと一体になるのを初めて感じた球場でした。

◆日本ハム清宮(高校1号を放った)「普段はゴルフ場でグラウンドはよくないですけど、雰囲気は好きです。神宮の次に、東京の球場では好きですね。残念です」

<神宮第2球場トリビア>

神宮第2球場トリビア

▼相撲場 球場の前はバレーボールコートがあった。さらにその前は相撲場で、戦後すぐ大相撲も開催。

▼向きが逆 61年完成当初、本塁は国立競技場側だった。64年の全面改築で今の向き(神宮球場側)に。

▼幻のプロ野球本拠地 64年の全面改築に際し、国鉄(現ヤクルト)の本拠地とする計画も。当初は3万5000人収容の計画が、防災上の問題などから縮小。学生野球の反対もあり、計画自体なくなった。

▼人工芝 08年、全面張り替えとなった神宮球場の古い人工芝をお下がりされたが、第2球場の芝は東大球場に譲り渡された。