東日本大震災から9年。今季から就任した楽天鉄平1軍打撃コーチ(37)は11年当時の星野監督から指名され、球団の初代キャプテンを担っていた。先の見えない不安、葛藤を抱えながら歩んだ日々を振り返り「前進」と「風化」のはざまにある今と未来を考える。(文中敬称略)

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記憶は、ない。「自分の野球がどうだったか全然思い出せない」。09年に首位打者を獲得した好打者でも、プレーヤーとしての11年3、4月を覚えていない。ただ東北を拠点とする者として、忘れてはいけない記憶は鮮明に残っている。

9年前の3月11日。兵庫・明石トーカロ球場でのロッテとのオープン戦で、鉄平は右翼を守っていた。地震発生のアナウンスが流れ、8回表で打ち切り。電話で仙台に住む家族の安否確認をとったが、すぐにはつながらなかった。バスで宿舎へ。車中で確認がとれた。部屋のテレビ越しに津波のすさまじさを目にした。「ただごとではない」。

葛藤が続いた。グラウンド内外で仲間と対話を重ね、今後の対応について意見を吸い上げた。「早く仙台に帰りたい」。「宮城に帰らせてくれ」。70、80人の大所帯。交通機関はストップ。すべがなかった。

「当時は『いや、でも!』と思ってた。何とかなるんじゃないかと。がれきの1つでも運んで『復興』ではなく『復旧』に向けて手助けできないかと。せっかく人さまより、力も強く生まれたので」

球団へ要望を重ねたが1カ月間、仙台に戻れなかった。「野球は必ず開幕する。その時にいい姿を見せるために、今はしっかり野球をするしかない」。星野監督の言葉は「非常に厳しく聞こえました。ただ、今思えばあの時できることは野球しかなかった」。

4月7日。甲子園での練習を経て、山形空港からバスで仙台へ向かった。車窓の光景に息をのんだ。自宅へ戻り、片付けが一段落してテレビをつけるとTBS系「NEWS23」が映っていた。「ふー、片付いた」。23時32分、震度6強の余震が発生した。

暗やみでとっさに思った。「球場へ行こう。誰かいるだろうし情報も集まる」。上着を羽織り、夜道を徒歩30分。当時のKスタ宮城へたどり着いた。深夜3時ごろに帰宅し、翌朝は小学校を回った。

5日後、千葉で開幕を迎えた。仙台からバスで6時間半をかけ移動。「やるしかない」と決めてグラウンドに立った。6-4で勝利。ただ、チームは5位でシーズンを終え、自身も91試合、打率2割2分8厘にとどまった。「言い訳にならない。僕の調整不足。別のところに理由があった」。

仙台の中心街は今、多くの人が行き交う。「風化」と「前進」の違いをはっきりと言葉にする。「風化と言ってしまえば、すごく悪く聞こえる。風化しているわけではなく、それぞれがしっかり気持ちを持って、前を向いているのかな、と思う。忘れているわけではないし、受け継がれていかないといけない」。

今季から1軍打撃コーチを務める。選手として悩み、もがいた時間を無駄にはしない。「僕の感覚をごり押しするつもりはない。状況、人を見ながら判断していきたい」。もう1つ、初代キャプテンとして「東北」の名の付く球団で戦う意義をつなぎたい。

リアルタイムで震災を経験していない選手たちとの、距離感を測りながら。「すごく特異な出来事。伝えどころは難しい」。ただ、伝えたいことは明確だ。「応援してくれる方々がいることが、普通じゃない。大切にしていかないといけないよ、と」。今年もまた、3月11日に、かみしめている。【桑原幹久】

◆鉄平(てっぺい) 本名・土谷鉄平(つちや・てっぺい)。1982年(昭57)12月27日、大分県生まれ。津久見から00年ドラフト5位で中日入団。05年オフに楽天へ移籍し、登録名を「鉄平」に変更。09年首位打者、ベストナイン。13年オフにオリックスに移籍し、15年限りで引退。16年に球団職員で楽天復帰。19年からコーチを務め、現在は1軍打撃コーチ。178センチ、78キロ。右投げ左打ち。

▽楽天三木監督 東北のプロ野球球団としてできることがあれば、今まで通り続けて協力していくべきだと思う。(13年の日本一は)テレビで見た景色に感動した。野球を通じて、いろんな思いを伝えられたら。