首位阪神のドラフト1位佐藤輝明内野手(22)が偉大な先人に並んだ。ヤクルト戦の4回に高梨から同点の20号2ラン。1946年に戦後の大ヒーロー「青バット」の大下(セネタース)が記録した新人左打者の最多本塁打に並んだ。7回の守備では右翼から二塁へストライク送球で打者走者の青木を仕留めた。攻守でハッスルしたが、試合は8回に勝ち越された。勝った2位巨人に再び1・5ゲーム差に迫られた。

   ◇   ◇   ◇

プロ野球界で史上初めて20本塁打の大台に乗せたのが、1リーグ時代だった46年のセネタースの新人、大下弘だった。1922年(大11)12月15日生まれ、兵庫県出身。台湾・高雄商-明大を経て、45年秋に新球団セネタース(現日本ハム)と契約した。1年目の46年に20本塁打でキングとなった。戦前の本塁打王の最多が10本という時代に、別次元の活躍を見せた。川上哲治(巨人)と人気を二分し「赤バットの川上、青バットの大下」と並び称された。本塁打王3回、首位打者3回。1試合7安打は今もプロ野球記録として残る。52年に西鉄に移籍。54年の初優勝に貢献。56~58年は3連覇し、日本シリーズでいずれも巨人を撃破した。

通算201本塁打を放ち、59年に引退した。68年には古巣東映(現日本ハム)の監督に就任。74、75年には大洋(現DeNA)のコーチとなり、同じ左打者の長崎慶一(後に啓二)を育てた。長崎は82年に首位打者を獲得。85年には阪神に移籍し、来日3年目のバースがそのタイミングの取り方を徹底研究。同年の3冠王へとつながった。バースはいわば、大下の孫弟子ということになる。

名文家としても知られ、著書「大下弘日記-球道徒然草」は自らペンを執ったという。79年5月23日、56歳で死去した。【記録担当=高野勲】

▼ルーキー佐藤輝が20号。新人で20本塁打以上は03年村田(横浜)以来17人目。新人の最多本塁打は59年桑田(大洋)86年清原(西武)の31本だが、左打者では1リーグ時代の46年大下(セネタース)に並ぶ最多本数。チーム77試合目で20号到達は、58年長嶋(巨人)の89試合目を抜き、59年桑田の60試合目に次いで2位のスピード。

▼佐藤輝は、阪神の新人最多の69年田淵幸一の22本塁打にあと2と迫った。現在のペースを維持すると、年間37本塁打となる。プロ野球新人最多の59年桑田武(大洋)、86年清原和博(西武)各31本塁打の更新も十分に可能だ。

▼佐藤輝が3三振を喫し、通算112三振。阪神の新人では、19年近本の110三振を超え、最多となった。なおプロ野球新人最多は99年福留孝介(中日)121三振。