ロッテOBで早大野球部監督の小宮山悟氏(57)が、亡くなった村田兆治氏を悼んだ。

入団1年目の90年が、村田氏の現役最終年だった。最初に言葉をかわしたのは、1月の合同自主トレの時だった。

「川崎球場でした。村田さんは参加してませんでしたが、たまたまいらっしゃって。あいさつに行ったら『頑張ってくれよ。(スカウトの)醍醐さんから話は聞いている。とにかく期待しているから頑張れよ』と声をかけてもらって、感激したのを覚えてます」

1年目から同じ先発投手として行動をともにすることが多かった。

「地方での試合が多くて、山形で試合があって、翌日は仙台なんてスケジュールが結構ありました。その時、2人とも登板予定がないと、山形から一山、二山越えて、チームとは別に先にタクシーで移動する。村田さんとご一緒させられることが多かった。車内で音を立てると怒られるんです。会話は必要最低限。運転手さんもラジオを切った。しかも、村田さんはクーラーが一切ダメで『自然の風だ』と言って、窓を開けて走らされる。私は内心『おい、おい、おい』と思ってました。ちょっとでもリラックスした姿勢を見せたら怒られるから、前に重心をかけながらね。かなりの地獄でした」

そう言って、懐かしんだ。「頑固な人でしたけど、本当に優しくしてもらいました」。小宮山氏の登板翌日には「昨日は良かったな」「あそこで、あの球はダメだぞ」などとアドバイスをもらうことも多かったという。

その年、村田氏は2ケタ10勝を挙げながら現役を引退した。その姿が、ルーキーだった小宮山氏には強烈な印象として刻まれた。

「村田さんの生き様というのかな。それは勉強になりました。意地を張って、自分のプライドを守るために頑張る姿というか。プロはこうじゃなきゃいけないんだと」

ただ、こうも思った。

「なんで、この成績で辞めちゃうんだ。もったいないと。私の中では、余力を残して、というのはちょっと違うと感じました」

小宮山氏は2浪して大学に入ったため、他の大卒ルーキーよりも年を取っていた。そのため、醍醐スカウトに「年齢がいってからのプロ入りですから、長くやる気持ちは、さらさらありません。短命で構わない。燃え尽きようと思います」と話していたという。

「村田さんの引退を見たとき、やれるんだったら、とことんやらなきゃダメだと思いました。いい意味での鏡ですから」

小宮山氏は44歳まで現役を続けた。

突然の別れを知り、何度も「本当に優しくしてもらいました」と繰り返した小宮山氏。「なんて言ったらいいのか。ロッテの大エースと言っていい。本当、残念です」と悼んだ。【古川真弥】

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