11年3月11日の東日本大震災から13年がたつ。当時の少年たちは次々に、社会へ羽ばたいている。

ロッテ佐々木朗希投手(22)の大船渡(岩手)時代のチームメートの多くもこの春、社会人になる。4年間、神奈川・相模原市の北里大に通った村上泰宗さん(22)もその1人だ。

帰省し、大船渡市内の海辺に初日の出を拝みに行った。「その時、朗希も来ていて。『おめでとう』って言ってくれて。母親同士のネットワークで知ったんですかね」。同じ陸前高田市の出身。震災で父を亡くしたのも同じだ。

あいにくの曇り空で、三陸の海から上がった太陽はうっすら光が差す程度。その海に家族を、町を奪われた。でも憎んでいない。4年前に上京した村上さんは岩手県にUターン就職し、水産関係の仕事につく。

北里大の海洋生命科学部の研究センターが、大船渡市内にある。しかも“ロッテ朗希”の誕生を仲間全員で見つめたドラフト会見場のほど近く。そんな縁深い大学へ進んだ。上京の日の記憶はうろ覚えだ。

「新幹線の駅まで親に送ってもらって。そこから1人で新幹線、小田急線、相模大野からバス。あんまり都会に感動、とかはなかったですね」

上京して4年間、特に学んだことは。

「何ですかね。うーん、あんまり他人を信頼しすぎないことですかね」

良き友もできたし、そうじゃないことも。震災をやゆされることもあって、高校時代の仲間に愚痴ったこともある。「そんなの友達か?」。球友の言葉に胸が熱くなった。

人間関係で気がめいっていた時期に、成人式があった。陸前高田と大船渡の式典を「ハシゴしたい」と言った朗希と一緒に、ハシゴした。いろいろな仲間に「いま何やってんの?」と尋ねてみた。

「みんな、どういう生活してるのかなって。しんどいのか、ラクなのか。苦労してるヤツは苦労してるし、そういう話で気持ちを共有して。高卒で就職して楽しんで仕事してるヤツもいたし。俺も頑張ろっかな、と思いました」

東京で地元のような落ち着きを感じることはあまりなかった。たまに乗る満員電車はしんどかった。帰省するタイミングで地震が発生し、東北新幹線が運行休止になった。

「新幹線使えなくて、帰り方もよく分からなくて。みどりの窓口に入って『○○で行きたいんですけど』っていうのを続けて。それがだんだん北に行くにつれて、係員さんが優しく親切になっていって」

東北が好きだ。大学の研究室の仲間と、大船渡の研究センターを訪れたことも何度かあった。皆が震災遺構に言葉を失い、食事や景色に感動している。

「そういうのを見るとなんか、別に自分が作ったご飯を食べてるとか、自分の管理してる景色を見て感動してるわけじゃないですけど、でもなんかうれしいなと思います」

たぶんそれは「誇らしい」という感情だ。誇るべき故郷へ戻り、働く。

「震災の経験とかがあって、貢献じゃないですけど、地元に帰って自分の好きなことで復興とか発展とかに携われたら、やりがいがあるかなって」

楽しみ半分、怖さ半分で社会人になる。ひと足先に社会に出た朗希を、誇りに思う。飲食店で隣のテーブルが「佐々木朗希が…」と盛り上がっている様子も何度か聞いた。

「朗希、すごいんだなーって。でもあいつ、どこまで行くんですかね。メジャー行く前にもう1回見たいな…」

大学や就職先では、自分を「佐々木朗希の元チームメート」と知っている人もいる。でも。

「会話のきっかけになる面ではいいかなと思いますけど、でもこう、自分のことじゃないのに威張るのもなんか違うので」

そんなつつましい青年だ。どんな大人になっていきたいのだろう。朗希とハシゴした成人式で、行く道を思い描き始めた。

「あの時、周りの人たちに本当に元気をもらって…。めっちゃかっこ良く言うと『そっち側になれたらいいな』って、こっそり思ってます」

めっちゃいい顔をして、岩手に帰る。【金子真仁】

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