6月末で吉本興業を退社する大崎洋前会長(69)が、大阪市内で、日刊スポーツのインタビューに応じた。

発行部数約6万5000部のヒット作となっている3月発売の著書「居場所。」(サンマーク出版)に込めた思いから、退社発表後の周囲の反応、今後手がける25年大阪・関西万博への夢にも言及した。本日から3回連続で掲載する。【取材=松尾幸之介、村上久美子】

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突然の退社発表、だがすでに次の夢へ動いている。やはり、ひとつの“居場所”にはとどまらない。自身の半生をつづった著書発売から約2カ月。大崎氏は約45年間勤めた吉本興業から去ると発表した。

「思い残すことはないです。タイミングはたまたまですね」。2年前から同著の作業に入ったが、当時からこの時期に退社を決めていたわけではない。

「計算するような性分でもないし、偶然。そこで、たまたま『万博の座長にご就任いただけますか』と声かけていただいた。少し前まで辞めるつもりもなかったですしね。そんな感じ」

もともと「スーツじゃなくて仕事できる」ことも魅力のひとつで入社した。夢や野望に満ちていたわけでもない。それでも「芸人に『居場所』を作るのが仕事」と専心。その結果が、吉本興業というブランドを磨き上げる格好になった。

退社を発表すると、引き留める声も多く届いた。それでも「変な話、辞めたらみんな(自身の不在に)慣れる」と動じない。

「大崎がいなくなったらたいへんちゃうかってね、いや、それは、ちゃんとバトンタッチできなかったと思われるのは僕からしたら恥。今の岡本社長のもと、何とか吉本も安定した。いいタイミングかな、と。(周囲には)好きなこと言わんと頑張って仕事しいや-。直接は言えへんけど心の中ではそう思ってます」

著書にもたびたび登場するのが、デビュー当時から長い付き合いのダウンタウン松本人志(59)、浜田雅功(60)だ。吉本総合芸能学院(NSC)1期生として入ってきた2人に魅力を感じ、自ら名乗りを上げてマネジメントした。

「何やろね。コンビとして最高のバランスやったんやね。普通、30+70とか、50+50が100やけど、彼らは100+100」

駆け出し時代、才能に気づき、関西を代表する名物番組「4時ですよ~だ」から、心斎橋筋2丁目劇場ブームへ社会現象にもなった。芸人とマネジャーの枠を超えた関係となって久しい。その2人からも、退社には「何でですか?」と疑問を投げかけられた。

「松本君には、BSよしもとの番組で一緒になった時に車の中で言いました。他の話してて、それはそうと俺辞めるねんと伝えて。ひと区切りやと思うし、万博の仕事、一生懸命やるねんと。『そこまでしてやらないかんのですか』と言ってましたね」

浜田には電話で伝えた。

「『そんなん一生懸命せなあきませんか』と言われて。『松本は何て言ってましたか』と言うので、浜田と同じこと言うとったと言って、2人で笑いました」

ともに、大阪、関西から生まれたスターと、名物社員だ。「大阪に育てられた吉本、恩返しせないかん」との思いは、2人にもきっちり届いたようだ。

◆「居場所。」 吉本興業大崎洋前会長初の著書でサンマーク出版から3月に発売。発行部数約6万5000部(23年6月時点)のヒット作。自身が“居場所”を作るために心がけてきた12の「しないこと」の紹介のほか、若きダウンタウンとの逸話、家族とのエピソード、07年お家騒動や19年闇営業問題での当時の思いなどを赤裸々につづる。

◆大崎洋(おおさき・ひろし)1953年(昭28)7月28日、堺市出身。関西大卒業後の78年吉本興業入社。東京異動を経て大阪で82年開校の芸人養成所「吉本総合芸能学院」(NSC)を担当。1期生ダウンタウンのマネジャーとなる。87年に前年開場の「心斎橋筋2丁目劇場」から生放送の毎日放送「4時ですよ~だ」のプロデュースを務める。01年に最年少で取締役就任。07年副社長就任。09年第10代社長に就任。19年に会長に就任し、23年4月に退任した。