東京ドームでの統一世界ヘビー級タイトルマッチを2日後に控えた1990年2月9日の夕刻、黒い革のジャケットを着た黒人男性が成田空港に到着した。彼の名前は世界ヘビー級ランキング1位イベンダー・ホリフィールド(米国)。1階級下のクルーザー級の王座を統一した後、ヘビー級に階級を上げていた。戦績は23戦全勝(19KO)。当時「唯一タイソンを倒す可能性を秘めた男」と目されていた。
実はタイソンとホリフィールドは、同年6月18日に米国ニュージャージー州アトランティックシティーに新設されるタージ・マハールホテルのこけら落としで対戦することが決まっていた。米国ではすでに“世紀の対決”として注目が高まっており、東京ドームでのダグラス戦はその調整試合という位置付けだった。「今回もタイソンは素晴らしい試合をするだろう」とホリフィールドもライバルの勝利を疑っていなかった。
続いて到着したのが後に大統領となるドナルド・トランプ。当時は米東海岸のアトランティックシティーに壮大なカジノリゾートを開発した不動産王で、新たに建設中のタージ・マハールを世界有数のカジノにする野望を持っていた。そのために世界注目のタイソン-ホリフィールド戦を誘致した。「タイソンに呼ばれて来日しただけだ。地価の高い日本の不動産を購入するような愚かなことは考えていない」と、ジョークをまじえたトークで報道陣を笑わせた。
すでにタイソンの周辺では、2月11日の防衛戦後の計画が具体的に進行していた。プロモーターのドン・キングは6月のホリフィールド戦後について「カナダ、中国、インドネシア、西ドイツなど防衛戦を世界中で開催することを考えている」と具体的な候補地を挙げて“世界ツアー”計画を明かしていた。キンシャサやマニラなど世界各地で防衛戦を重ねて世界的なヒーローになったムハマド・アリ(米国)のような存在を目指していた。
報道陣の取材もいつしか、東京ドーム後に焦点が当てられるようになった。私は中国政府の要人が来日する情報をつかみ、ある人物の裏を取った上で『来春にも北京防衛戦』というニュースを1面で書いた。ライバル紙のスポニチも「今秋、ベルリン防衛戦」と1面で打ち返してきた。一方、スポーツ報知は「モデルのナオミ・キャンベルと再婚」。ダグラス戦よりも、その後に関するニュースが大きく報じられた。
東京ドームの試合スポンサーのトヨタは、2トントラック『ダイナ』のCMにタイソンを起用していた。小型トラックではいすゞ、三菱、マツダの後塵(こうじん)を拝していたため、タイソンのハードパンチのインパクトに期待した。前年夏までの契約を、東京ドームでの防衛戦と、その後も想定して90年の夏まで延長していた。周囲の誰ひとりとして、タイソンが負けるなど想像もしていなかった。
ボクシングほど予想の難しいスポーツはない。実力に大きな差があっても、たった1発のパンチで形勢が逆転するからだ。それがボクシングの醍醐味(だいごみ)でもある。そんなシーンを何度も目にしてきた。ボクシングに絶対などない。しかし、私たちはタイソンの圧倒的な強さと『史上最強』という看板の強い光りに、負の要素が見えなくなっていた。そして、東京ドームに運命のゴングが鳴った。【首藤正徳】