現役時代にバンジージャンプを体験したことがあります。90年代半ば、ニュージーランドでの合宿を終えて空港に向かう道中にあった現地の施設に、チームの仲間と立ち寄りました。ふつうは足に命綱を着けて飛び降りますが、足に障害がある私は胴体に装着具を取り付けて飛びました。当時は遠征費も全額自費。私も若くてやんちゃでした。

 印象的だったのは施設のガイドです。車いすの私にも驚くことなく「これを着ければいいよ」と、胴体用の装着具を用意してくれました。マニュアルがあるわけではなく、対話しながらの柔軟な対応でした。分け隔てなくどんな人にも楽しんでもらう。彼らにはそれはごく自然なことでした。

 ハワイでは船上からのシュノーケリングを体験しました。前日、ホテルのデスクに車いすで予約に行くと、「1人?」と聞くので「夫と」と答えると「まだ空いてるよ」。それだけです。海の中を歩いて船に乗る際にはガイドが「おぶっていくよ」と。夫には義足を運んでもらいました。

 一方、日本の施設やイベントでは「利用できません」と断られることがあるので、入場時や参加にはためらいがあります。昨夏の日本パラリンピアンズ協会の調査では、パラリンピアンの5分の1がスポーツ施設の利用拒否や制限を受けた経験があるとの回答がありました。「床にキズがつく」「他の客の迷惑になるかもしれない」など理由はさまざまでした。

 米国では1990年に障がい者差別を禁じる法律ADAが成立して以来、障害を理由に入居や入場を断ることができません。それが徹底されたことで「断らない文化」が根付いたように思います。残念ながら日本ではトラブルや管理責任を先読みしすぎて、異質なものを排除するという考え方がまだ根強く残っています。

 10代の頃、初めて行った米国のプールでの出来事を思い出しました。私は義足の置き場に悩みました。更衣室で外すとプールまで行けない。プールサイドで外すと自分で管理できない。すると現地に住む一緒にいた親戚が監視員に「義足を置くから見ておいて」と気軽に声をかけました。監視員は「いいよ」と二つ返事。融通が利く社会がありがたくて、私は何だかハッピーな気分になりました。

(パラリンピック・アルペンスキー金メダリスト、日本パラリンピアンズ協会副会長)

 ◆大日方邦子(おびなた・くにこ)1972年(昭47)4月16日、東京生まれ。3歳の時に交通事故で右足切断。左足にも障害が残る。高2からチェアスキーを始め、パラリンピックは94年リレハンメル大会から5大会連続出場。98年長野大会で冬季大会日本人初の金メダルを獲得。メダル数通算10(金2、銀3、銅5)は冬季大会日本人最多。10年バンクーバー大会後に引退。