日本対チュニジア戦は記念すべきW杯通算1000試合となった。歴史の幕開けはウルグアイで開催された1930年7月13日。同時キックオフだった米国対ベルギー戦、フランス対メキシコ戦だった。

その第1回大会は予選なしで世界から13カ国が招待された。ただ船旅を避けたい欧州勢はフランス、ベルギー、ルーマニア、ユーゴスラビアの4カ国だけ。民間旅客機が普及したのは第2次世界大戦後とあって、欧州から2週間以上かかる船旅は「冒険」とされた。

「W杯の父」は国際サッカー連盟(FIFA)第3代会長のフランス人、ジュール・リメ。1921年に就任すると、アマチュアの五輪とは別に真の世界一を争う大会の必要性を訴えた。そこから9年がかりの第1回大会だ。「母国」英国がFIFAから脱退していたように世界をまとめる苦難は多かった。大陸間でルールも異なる。29年には世界恐慌による混乱で各国の財政は逼迫(ひっぱく)した。課題は山積みだった。

ただ第1次大戦後に世界が秩序を取り戻していく中、友好関係を築く上でサッカーは大きな役割を担っていた。誰もがサッカーを求めていた。開催にこぎ着けたリメの功績を称え、第1回の開幕戦には母国フランスが選ばれた。なおウルグアイ開催の理由は、建国(1828年)から100年を祝う国家事業だった。

最初は13チームで始まった大会だが、54年スイス大会から78年までは16チームで固定され、82年のスペイン大会から24チームに拡大。それでもアジア2枠とあって日本には夢のまた夢だった。93年のJリーグ創設によって強化は進む。98年から32に出場枠が増えた恩恵も受け、日本は初出場を果たす。以降8大会連続の出場となり、今回の1000試合目に巡り合った。

1000試合には多くの忘れられない名勝負がある。W杯の虜(とりこ)となった82年スペイン大会、イタリアのロッシがハットトリックを決めてジーコ、ソクラテスら「黄金のカルテット」のブラジルを3-2と打ち砕いた。そこから「サカバカ」は始まった。

世界中で人気があるサッカーゆえ「フットボールアース」とも呼ばれる。ただ忘れてはならないのは平和があってこそのスポーツ。第2次世界大戦の影響によって1942、46年とW杯は実施されなかった。日本は被爆国となった。そして12年を経て再開されたのは50年ブラジル大会だった。

今回の北中米大会も米国とイランの軍事衝突が焦点となった。大衆は誰も争いなど望まない。この先の1000試合へ「フットボールアース」であり続けることを願う。【佐藤隆志】

森保ジャパン4得点快勝!エース上田綺世2発、鎌田大地2戦連発、伊東純也も決めた/詳細

日本対チュニジア 前半、上田綺世は追加点となるゴールを決める(撮影・足立雅史)
日本対チュニジア 前半、上田綺世は追加点となるゴールを決める(撮影・足立雅史)
上田綺世のゴール。チュニジアGKアイメン・ダハメン(ロイター)
上田綺世のゴール。チュニジアGKアイメン・ダハメン(ロイター)
前半31分、ゴールを決めポーズを決める上田綺世(ロイター)
前半31分、ゴールを決めポーズを決める上田綺世(ロイター)
日本対チュニジア 前半、競り合う上田綺世(AP)
日本対チュニジア 前半、競り合う上田綺世(AP)
ゴールを決め喜ぶ上田綺世(ロイター)
ゴールを決め喜ぶ上田綺世(ロイター)
日本対チュニジア 前半、先制ゴールを決める鎌田大地(撮影・足立雅史)
日本対チュニジア 前半、先制ゴールを決める鎌田大地(撮影・足立雅史)
前半4分、先制ゴールを決め喜ぶ鎌田大地(左)。右は中村敬斗(ロイター)
前半4分、先制ゴールを決め喜ぶ鎌田大地(左)。右は中村敬斗(ロイター)
日本対チュニジア 試合前、ピッチを見つめる森保一監督(撮影・足立雅史)
日本対チュニジア 試合前、ピッチを見つめる森保一監督(撮影・足立雅史)