日本が悲願のW杯初出場を決めた「ジョホールバルの歓喜」から明日16日で20年となる。97年11月16日。呂比須ワグナー(48)は悲しみを乗り越え、決戦のピッチに立っていた。イラン戦の4日前に母国ブラジルに住む母ルジアさんが60歳で病死。それでも帰国せずチームに残り、試合では決勝点の起点となった。最愛の人の死から覚悟の大切さを教わり、今、新潟の監督として戦っている。(敬称略)

 

 今も鮮明に残っているシーンがある。「当時のチームのみんなは忘れているかもしれないけど、僕はずっと忘れない」。20年前の記憶に、呂比須は瞳を少し潤ませた。

 イランを破った直後、選手はそれぞれ感慨に浸った。やや放心状態だった呂比須は背後から声を掛けられた。「ロペ!」。山口素弘が日章旗を持って近づいてきた。それを頭からかぶせられ、抱き締められた。山口の言葉が温かかった。「勝てたのはお母さんのおかげだ。お母さんと一緒にフランスに行こう」。他のチームメートも同じように声をかけてくれた。こらえていた涙があふれ出た。

 ジョホールバルの一戦を「僕にとってはW杯の決勝と同じくらい価値がある。人生最大の一戦」と言う。その年の9月に日本国籍取得。切り札として周囲の期待を感じていた。そんな状況で高まった気持ちを、ルジアさんの死がさらに奮い立たせた。

 死去の連絡は試合4日前早朝、クリスチーナ夫人からの電話だった。がんを患い、自宅で静養中だったルジアさん。会ったのはブラジルに帰省中だった1月が最後。3歳のとき、父ジェロニモさんが落雷事故で42歳で死亡。それから再婚せず、1人で8人きょうだいを育てた。呂比須は母を思い、泣いた。

 ただ、「亡くなったのは母の肉体。魂は生きている。そう思って試合に出る」。岡田武史監督には帰国をすすめられたが、代表同行を訴えた。「直前になって選手が1人抜ける。そんな迷惑はかけられない。僕は日本のために戦いたかった。母もそれを望んでいる」。そう決めると心は落ち着いた。

 覚悟は試合に影響した。後半18分から出場。岡田監督からの指示は「中央で待って体を張れ」。決勝点の直前、呂比須は相手とボールを奪い合い、中田英寿に渡す。そして岡野雅行のゴールデンゴールにつながる。「自分の得点を求めて動こうとは思わなかった。岡田さんの指示を守れた」。重要な場面で求められるのは冷静な判断。現在、J1残留争いで苦闘が続く新潟の監督を務めながら、選手たちに説き続ける。

 「でも、もっと大切なのはやはり気持ち」と言う。「母の死はつらかったが、それでも大切な試合になれば集中できる。同じ気持ちで戦ってくれた仲間がいたから」。冷静さと、仲間への感謝。最愛の人の死から得た教訓をこれからもサッカー人生に生かしていく。「母のためにもそうありたい」。【斎藤慎一郎】

 ◆呂比須ワグナー(ろぺす・わぐなー)1969年1月29日生まれ、ブラジル・サンパウロ州出身。86年にサンパウロでプロデビュー。87年途中からJSLの日産に移籍。02年に福岡で引退。引退後はブラジルで監督、コーチを務めた。12年はG大阪のヘッドコーチ。17年5月に新潟の監督に就任。J1通算125試合出場69得点。日本代表で20試合出場5得点。