サッカーA代表とU-22日本代表を兼務する森保一監督(51)が、東京五輪世代の国内最初の国際親善試合開催地に選んだのは広島(17日、コロンビア戦)だった。12月28日(長崎、対戦相手未定)と合わせた2試合は「ブルーピースデー」と命名され、世界で2つしかない戦争被爆地から平和を発信するのが狙いだ。森保監督のJリーグ・サンフレッチェ広島での現役時代、多くの影響を与えた当時広島総監督の今西和男氏(78)に今回の凱旋(がいせん)試合実現の思いを聞いた。【取材=横田和幸】

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今西氏といえば、広島をJリーグの盟主に育て上げた人物で有名だ。02年にJ2に降格した責任を取る形で辞任。その後はFC岐阜の組織作りにも関わったが、今はサッカー界と完全に離れ、広島市内で静かに暮らしているという。恰幅(かっぷく)のあった体形も随分とスリムになったが、鋭いまなざしは変わっていなかった。

「親善試合を広島と長崎で行うのは、各時代の恩師やこれまで応援してくれた人の温かさを、森保君が肌で感じて人生を送ってきたから。努力をしてここまで来られた、その感謝を表現したかったのでしょう。今回のコロンビア戦の前には彼からチケットが届きました。義理堅い男です」

Jリーグ広島でも森保監督が指揮を執っていた時代から、サッカーを通じて平和や核兵器廃絶を訴える「ピースマッチ」を8月に実施してきた。プロ野球広島も先んじて同様の趣旨のナイターを開催している。だが今回は同じ森保監督とはいえ、日本サッカー協会と思いを1つにし、東京五輪世代として初の国内で行う国際親善試合の会場が広島になった。「五輪は平和の祭典。広島や長崎で試合を行うことに意義がある。サッカーをできる幸せを感じてほしい」という同監督の思いが実現した。

「私は4歳の時、広島市の自宅で被爆を経験しました。2階で近所の友人と口げんかをしていたら、左側でぴかっと光った。周囲は焼け野原でした。人々が飛び込んだ川の水を飲み、近くのほら穴に逃げ込んだ。食べるものもなく、泣き叫んだのを覚えています。つらい体験でした。森保君にはそんな思いを何回か話したことはあるが、彼も長崎で生まれ、広島で長く育ったことで身を持って平和の尊さを感じてきたのでしょう」

全国的、いや長崎でも無名だった森保監督の長崎日大高時代、今西氏と後に日本代表監督になったオランダ人のハンス・オフト氏(当時はコーチや監督を歴任)でスカウトに出かけたという。あくまで高校の監督による推薦を受けての確認作業だった。

「長崎日大高時代の彼は足は遅い、ドリブルもへた、フィジカルも強くない選手だった。でも視野が広い、運動量と集中力がある。オフトは試合の前半を見ただけで採用(獲得)を決めました。そして日本代表選手になった。当時は有力な選手はみんな関東の企業や大学に進んだ。森保君は何の背景も持たない、たたき上げで育ってきた最初の選手かもしれません」

Jリーグでは94年第1ステージで広島が優勝。試合での技量だけではなく、今西氏は選手に人間形成を促していた。当時の主力メンバーはFW高木琢也(現J2大宮監督)、DF片野坂知宏(現大分監督)、DF森山佳郎(現U-17日本代表監督)らは日本を背負う指導者になった。みんな今西氏が手塩にかけて育てた人材だ。

「私が育てたとよく言っていただくが、そんなことはない。当時はマツダ本社の教育訓練部の方たちが、話す、聞く、考えるといった社会人としての授業を選手たちにしてくれた。指導者として生きていくなら、サッカーがうまいというのは関係ないと思っていましたが、私もそういった人間育成に一緒にトライさせてもらった。そういった中に森保君たちがいた。森保君はA代表と五輪世代の監督を兼務し、多忙を極めているのにうまくやっています。もう、サッカー界とは縁のない私ですが、森保君とともに一緒に挑戦してきた時代を誇りに思います」

◆今西和男(いまにし・かずお)1941年(昭16)1月12日、広島市生まれ。63年広島の前身東洋工業(後にマツダ)入団。マツダ時代にオフト監督を誕生させた。GM(ゼネラルマネジャー)職の先駆け的存在で、Jリーグ発足後は総監督の肩書で現役時代の森保らの育成を手がけた。02年広島のJ2降格に伴い総監督辞任。