【デュッセルドルフ(ドイツ)27日=岡崎悠利】日本代表がW杯前最後の活動を行う地で、サッカーで人生を切り開く日本人がいる。DF内野貴史(21)は、日本代表MF田中碧と同じブンデスリーガ2部デュッセルドルフでプレーする。24年パリ五輪世代のU-21日本代表にも選出される期待の若手が現地で取材に応じた。17歳でドイツに渡り、不遇の時を乗り越えて五輪代表入り。目指すパリ五輪の先に、26年W杯がある。

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電車の中で、スマホに着信が入った。「ドバイカップで、招集する」。声の主はU-21日本代表の大岩剛監督。デュッセルドルフのトップチームで公式戦にデビューしてから、わずか数日。22年3月、生まれて初めて日本代表のユニホームに袖を通すことが決まった。「1試合で人生が変わると言うが、こんなに大きく変わるんだなと思った」。内野は飾らない言葉で胸の内を語った。

J2千葉の下部組織出身。ユース卒業時にJクラブから声がかからなかった。17歳で進路に選んだのはドイツ5部デューレンのユースチーム。成り上がりに燃え、到着した練習場を見てすぐに感じた。「そんなに甘くなかった」。芝生は整備が行き届かず、公園のようだった。片隅には動物のふんが落ちていた。無理を聞いて送り出してくれた両親に心配をかけまいと「ピッチは天然芝だよ」と電話口で笑って隠した。

寮の費用だけ仕送りしてもらった。3食は寮で出るが、満足のいくものではなかった。ドイツでは空き缶やペットボトルをスーパーに持ち込むと、再生利用への貢献を理由にわずかなお金に代えられる。練習後は仲間が全員帰ったあとにクラブハウスやピッチを周り、捨てられたボトルを拾い集めてスーパーに向かった。手渡される2~3ユーロで、プロテインバーを買った。

アウェーの試合は赤い土のグラウンドで行われることもあった。固く、膝にも負担がかかる。肉体以上に心がすさんだ。「ここで試合をしていても誰が見ているだろうとか、努力しているのがばかばかしく感じたこともあった」。先が見えない不安にさいなまれた。

ただ、自分からギブアップすることはありえなかった。両親は父が卓球、母がバドミントンの国体選手。少年サッカー時代は試合を見にきて、敗戦直後は「なぜまだ試合が終わっていないのに諦めたのか」と態度をたしなめられた。競技は違ってもスポーツとの向き合い方は同じ。内野は「相手にも自分にも負けちゃいけないということを学んだ」。

ステップアップへの飢えが選手からにじみ出る世界をはい上がった。渡欧から1年後の19年は4部アーヘンでプレー。味方の失敗を周囲が笑い、試合に負ければ出場しなかった選手が励ますどころか「お前ら来週はもう出られないな」とはしゃいだ。ロッカールームでのきたないいじめも目にした。まさに生存競争。その中でパフォーマンスを維持し、同じ4部に所属するデュッセルドルフU-23への移籍を勝ち取った。

トップチームの選手のケガやコロナ禍による台所事情により、練習に参加する機会も。そこでアピールに成功し、3月にトップチームデビュー。約4万人のサポーターがスタンドをチームカラーの赤に染める。発煙筒による火薬のにおいが闘争心をかき立てた。「『試合に勝ってなにになるんだろう』と考えながらサッカーをしていた自分と今を重ねると、逃げ出したいくらいの緊張の中にいるのがいかに幸せか感じます」。精悍(せいかん)な顔つきで実感を語った。

24年パリ五輪を目指す。現在すぐそばで活動する日本代表は「試合結果で日本がみんなで喜んだり悲しんだりする、憧れの存在」と語る。クラブで主力を勝ち取り、五輪を戦い、さらにその先に26年W杯がある。「この先もしかしたらまたケガもあるし、クビになることもあるかもしれない。でも、どん底を見ているから『どこでもサッカーやるし』っていう気持ち。なにも怖くない」。リアルなドイツサッカーの下積みで鍛え上げられた内野の視界は、前途洋々に開けている。