日本で唯一、2度もワールドカップ(W杯)の指揮を執った岡田武史元監督(66=日本サッカー協会副会長)が、日本人監督の系譜を継ぐ森保一監督(54)へエールを送った。日刊スポーツの歴代担当記者と展開した「岡田武史論」の最終回。22年カタール大会担当の磯綾乃、取材歴40年の荻島弘一を相手に、史上初のベスト8を目指す日本代表、そして親交のある森保監督への熱い思いを語った。

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記者会見で話す森保一監督はいつも変わらない。感情の起伏が声色に表れることはなく、誰に対しても穏やかな口調で言葉を紡ぐ。そんな印象を話すと、岡田氏は「すごいよね。でも自分も穏やかだよ。ちょっときついこと言い返しちゃうだけで」と笑って、過去の1シーンを思い返した。

代表監督時代、試合後の記者会見の場。延々と自分の意見を述べてくる記者がいた。冷静な岡田氏が熱く切り返した。「ああ良かった、あなたと一緒じゃなくて。一緒だったら僕もアマチュアになっちゃうから」。一見スタイルは異なって見えるが、2人は共通した「強さ」を持っている。

岡田氏 監督の仕事の中で、マスコミ対応はものすごく大きな仕事。自分に矢が飛んでくるのはいいんだよ。でも、チームや選手に矢が飛んでいくと崩壊する。監督はその盾にならないといけない。そこは森保もしっかりやってるな、と、はたから見ていて思う。

結果が出なければ、バッシングの雨にさらされる。心を痛め、指導の場から離れていった仲間も数多く見てきた。SNS隆盛の今、さまざまな形で容赦ない声も降り注ぐ。それでも、森保監督はブレないという。

岡田氏 森保も「クレージージョブ」をやっているから相当プレッシャーがかかっていると思う。「自分の思いでやらないといけない。ブレたらダメだよ」と話はしている。でも、こちらが言ったからという問題ではなくて、根本的に森保自身がそういう強さを持っている。この仕事はそこがダメだと難しいんだよ。

2人は定期的に連絡を取り、時には食事をともにする。W杯アジア最終予選オーストラリア戦で、森保監督が決断した4-3-3へのシステム変更は、10年南アフリカ大会の岡田氏の戦い方を参考にしていた。

岡田氏 不思議なことに、これまで誰もW杯の経験を自分に聞きに来なかった。外国人監督が多かったからだろうけど、森保が初めて電話をかけてきて、会いに来たんだよね。やっぱり日本人監督だと積み重ねができるんだと感じたよ。

24年間つながれてきたW杯の戦いの歴史。それは今、岡田氏から森保監督に濃密に受け継がれている。

積み重ねてきたものは、監督の経験や選手の技術だけではない。W杯では組み合わせ抽選の会場で、各国が練習試合を打診し合う。初出場した98年フランス大会は、その“常識”さえ、自分も誰も知らなかった。

岡田氏 あの時は「FIFAからこんなこと言われた!」とか「記者会見に出てこいって…どうする、そんな格好で!?」とか。練習試合のマッチメークなんて頭にもなかった。世界で最後に出場が決まったものだから、キャンプ地ブックを見ても、もう埋まっている。フランスの工場街のど真ん中とか、そういうところしか残っていなかった。

結局、キャンプ地はリストになかった場所を紹介してもらった。環境は申し分ないが、周囲にはマンションが立ち並び、練習は丸見え。「窓にカメラが見えるんだよ。あれ絶対、日本人(メディア)だって。今でも思っている(笑い)」。懐かしむ思い出も、今ではありえないことだ。

岡田氏 監督の継承というより、サッカー協会としてのノウハウは、すごくたまってきている。これが、その国のスタンダードが上がっていく積み重ね。いま少し差があるのは、ドイツやスペインには、1次リーグを突破した後のノウハウが積み重なっているところだね。

しかし、今大会は異例の冬開催。欧州各国のリーグが中断するのはW杯開幕の直前だ。そこにチャンスが転がっているとみている。

岡田氏 リーグ戦の最中に1~2週間でチームをつくるなんてノウハウは、ドイツにもスペインにもないんだよ。つまり、同じところから今大会はスタートできる。ドイツのフリック監督は今、代表候補選手とウェブミーティングしているらしい。相当、焦っているし、不安だと思うよ。一方で、短期間で選手がグッと1つになるのは日本の方が得意。だから、チャンスは十分あると思っている。

W杯前最後の9月のドイツ遠征で、日本は4-2-3-1のシステムを試した。2-0で勝利した先月23日の米国戦を絶賛する。

岡田氏 やっぱり日本が勝とうと思ったら、いかに相手のDFラインにまでプレッシャーをかけられるか、だと思う。それが米国戦は本当にハマッていた。マッチアップに近いやり方で、すごく判断力がいるんだけど、素晴らしかった。

窮地から始まったアジア最終予選を戦い抜き、ここまでたどり着いた。やまない批判だって、成長の糧にするだけだ。

岡田氏 骨って、重力がないとボロボロになる。それと一緒で人間はいろんなプレッシャーがあって、反発して成長していく。メディアのプレッシャーも、あとになって考えると、自分にとってそういうものだった。森保もオーストラリア戦を乗り越える時は相当大変だったと思う。乗り越えたから大きく成長したし、チームも変わった。だから…皆さんは必要悪?(笑い) 我々、皆さんのご批判をいただきながら、成長させていただいています。感謝、感謝!(笑い)

今は笑って話せる岡田氏も、当時は大変な思いをしたはずだ。言葉の端々にユーモアをちりばめ、楽しそうに当時を振り返る様子は、過去の記事から受けた印象とは違った。日本代表に命を懸け、戦い抜いたからこそ、たどり着いた姿。そして今、森保監督がその道のりを歩んでいる。

岡田氏 1回目のW杯に出ていなかったら、2度目で1次リーグを突破していなかったら…自分の人生は変わっていると思う。森保も自分の人生を懸けている。ここで結果を出せば森保の人生も変わるよ。(11月1日に運命の最終メンバー発表を控えるが)それだけ懸けてやっているんだから、自分たちが口を出すことではない。信じた選手を選んでくれればいい。

その「結果」とは-。

岡田氏 皆さんが言っているように、ベスト8だと思う。ここまで16強が3度。そろそろ森保が打ち破ってくれるんじゃないかな。簡単なことではない。でも、十分チャンスはあると思うんだよ。

10年南アフリカ大会。岡田ジャパンは決勝トーナメント1回戦でパラグアイにPK戦の末に敗れ、ベスト8の夢を絶たれた。印象的な瞬間がある。

岡田氏 パラグアイが勝つために引いて守ってきた。想定外。カウンター狙いで攻めてこないから「来いよ!」ってベンチに叫んでいた(笑い)。そしてPK戦の後、相手の監督が泣きながら抱きついてきた。「何だよ…」と思ったら「初めてベスト8に進んだんだ」って。えっ、と思った。もう何度もW杯に出場しているパラグアイが、まさか初の8強とは思いもしなかった。でも、そうやって世界のチームは何十年もかけながら、1つずつ階段を上っていくんだなと。

1930年に初出場したパラグアイは8強に届くまで80年もかかっていた。1歩ずつ前進した世界の強豪のように、日本にだって積み重ねがある。何度もはね返された大きな扉。それをこじ開けるのは、初出場から24年7大会目の森保ジャパンだと信じている。【22年カタール大会担当=磯綾乃、90年イタリア大会担当=荻島弘一】(おわり)