青森山田が、1970年(昭45)の創部から47年で悲願の選手権初優勝を達成した。その初優勝に、献身的かつユーティリティーなプレーと精神面からチームを支え、大きく貢献した“ピッチの中の指揮官”がいる。主将のMF住永翔(3年)だ。

 今大会では1ボランチとして、中盤の深い位置で攻守にチームをコントロールしてきた。得点王に輝いたFW鳴海彰人(3年)の下で攻撃を組み立てたエースのMF高橋壱晟(3年)と郷家友太(2年)には、攻撃を中心に自由にプレーさせつつ、全方位にパスを散らして攻撃の起点となった。

 攻撃時に小山新と三国スティビアエブス(ともに3年)の両サイドバックも上がれば、残った2枚のセンターバックの間に入り、3バックを形成しラインをコントロールした。7日の準決勝・東海大仰星戦で、前半23分に三国が大胆な左サイドの突破からゴールを決められたのも、住永がDFラインに入り、守備をコントロールしていたからだ

 決勝戦は、序盤から前橋育英に押し込まれる苦しい展開となったが、その流れを押し返そうという明確な意思を示した、住永のプレーがあった。前半9分、住永は中盤の深い位置から意を決したように前進すると、相手選手をかわして左サイドへ大きくパスを展開。そのパスを受けた三国は、前橋育英のペナルティーエリア内にクロスを放り込んだ。得点にはならなかったが、苦しい中で攻撃の形を作った。何より、ずるずる押され、全体に下がり気味だったラインを押し上げることに成功した。

 住永は後半に3点目が入り、試合がほぼ決するまではアンカーとして従来、プレーする中盤の深い位置より前でプレーを続けた。試合後、その意図を聞いた。

 「自分が、どんどん前に出て、2シャドー(高橋と郷家)に『前に行け!! プレスをどんどんかけていい。相手がロングボールを蹴った後は、俺が一生懸命戻って頑張って(セカンドボールを)拾うから』と言いました。プレスをかければ、焦らない相手はいない。パスをつながれてテンポを作られるのが、1番辛いし嫌なこと。(青森山田のライン全体を押し上げる)意識はありました」

 献身的かつ冷静にチームを統率する姿は、7年前、同じ決勝で敗れた当時のキャプテンで、同じ北海道出身のJ3富山MF椎名伸志(25)の姿と重なる。

 「チームにとって欠かせない存在で参考にしてきた。(準優勝時は)柴崎岳選手とダブルボランチだった。今、自分はアンカーですけれど、シャドー(ストライカー)に自由自在にプレーさせてあげるところは、柴崎選手に好きなように出て行けとかやっていたと思う椎名選手を見習いながら、どんどんやりたいようにやっていい、後ろは俺がバランスが取るし、どんどんやっていいと言っている」

 一方で、機を見て自ら相手ゴールに迫る意識も持っている。「チャンスがあれば、アンカーが点を取っちゃダメというルールはないので、ここは行けるなと思ったらドンドン前に行く。山口選手のプレーを参考にしています」と、日本代表のC大阪MF山口蛍(26)のプレーを思い描いているという。

 その住永も、入学前には挫折を味わった。J1に昇格する札幌の下部組織U15に所属したが、U18に昇格できず、青森山田に進学した。「もちろん、悔しかったですけど、高体連(のチーム)に来て『俺は成長したぞ』という姿を見せなければいけなかった」。

 当時、指導者だった四方田修平監督(43)は今、トップチームを率いている。住永は「(高円宮杯U-18チャンピオンシップとの)2冠という形で、ジュニアユース、ユースの監督で、今はトップを率いる(四方田)監督に、いい報告が出来る。高体連で花咲いてやる、という思いがあった。ユースを落としてくれて、ありがとうくらいの気持ち」と、四方田監督への素直な思いを吐露した。

 卒業後は、関東大学リーグと総理大臣杯の2冠を制した大学サッカー界の強豪・明大に進学する。「中盤として仕事の量を増やして、勝利に貢献できる選手、誰が見ても『あの選手はいい選手だ』と言ってもらえるプレーヤーになりたい」。向上心を持ち続け、まだまだ上を目指していく。【村上幸将】