平成時代に日本で開催された最大のスポーツの祭典が「02年ワールドカップ(W杯)日韓大会」ということに異論を唱える人は少ないだろう。実は、昭和の終わりにW杯が日本にやってくる可能性があった。70年W杯メキシコ大会中、当時のFIFA(国際サッカー連盟)会長のスタンリー・ラウスから「86年に日本でW杯を開催できないか?」と打診された。

ラウスから直接言われたのは、当時の日本サッカー協会会長の野津謙。野津に相談された代表監督の長沼健は「日本代表はW杯で戦えるほど強くない。施設がない。運営能力がない。国民も理解してくれない」と否定的な意見を述べた。当時、W杯開催は夢のまた夢。結局、返事をしないまま時が過ぎ、86年大会はメキシコに決定した。人格者のラウスは当時、世界サッカー界に絶対の影響力があり、日本が首を縦に振っていたら、実現した可能性は極めて高い。

10年以上の年月がたち、80年代に入り、FIFA会長のアベランジェから再びW杯開催を打診された。サッカーの普及に尽力したラウスとは別の理由で、アベランジェはカメラや家電などたくさんの日本企業がスポンサードしていたことに魅力を感じた。規模を拡大する欧州サッカー連盟へのけん制策として、アジアとアフリカの連盟を囲い込む意思の表れでもあった。

しかし2度目の提案となった当時も、日本のサッカーに対する理解度は高くなかった。クラブW杯の前身である「トヨタカップ」の日本開催を「南米と欧州王者の対決なのになんで日本でやるのか。日本が強くなるわけでもない」との意見が多かった時代。日本協会は、提案から10年近くがたった89年に、やっと日本開催の意思を表明した。

アベランジェの後押しもあり、日本は02年開催に向けてコツコツと準備を進めていたが、表明から4年後の93年、韓国も立候補してきた。02年W杯招致の予備選ともいわれた94年5月、アジアサッカー連盟(AFC)推薦のFIFA理事選で、韓国会長の鄭夢準の11票に対し、日本の専務理事・村田忠男が得たのはたったの2票。危機感から95年に招致委員会メンバーを大幅に入れ替えた。事務局長を村田から小倉純二に代えた。実務者も日本協会職員5人から、電通と三菱商事の協力を得て専門家を加え、30人になった。

それでも、巨大企業と政府の支援を受けた韓国に押され気味で、招致活動は苦戦していた。日本復活のきっかけとなったのは、95年11月のFIFA視察団の来日。FIFAから依頼された南アフリカ、イングランド、ドイツからの担当者5人に、最大限の「おもてなし」をした。ここで力を発揮したのは各Jクラブのサポーターだった。

当時招致委員会広報部の村上洋樹は「特に鹿島サポーターの協力は今でも忘れない」という。視察団が鹿嶋市内をバス移動する際、バスの窓から見えるすべての空き地で、サポーターがサッカーボールを追う演出を率先して実行した。「日本のサッカー熱を見せよう」。視察団が訪れたJリーグの試合を満席にしたのも各チームのサポーターだった。当然、FIFA視察団は「サッカー熱はすごい」と、満足して帰ったという。

最大の難関は政府保証だった。FIFAが要求する政府保証とは、単純に「政府がW杯開催を保証します」のレター1通ではない。総理を始め各大臣、各自治体の首長、ホテル、JRなどの交通機関…。W杯開催にかかわる全団体のトップの保証書が必要だった。のちに資料として製本された保証書は150ページ。同年3月に地下鉄サリン事件が起きたこともあり「安全は保証できるものではない。さらにフーリガンが暴れたら日本は責任を負えない」と悩んだ警察庁長官のサインを最後にもらい、書類が完成した。翌96年には自衛隊法が一部改正されるなど、国としての受け入れ態勢が整った。

日韓の一騎打ち。96年6月1日のFIFA臨時理事会で理事23人の投票で開催地が決まるはずだった。しかし同5月30日、事務局長だったブラッターからの連絡で日韓共催を打診された。協議に協議を重ね、翌31日の早朝に日本が共催を受け入れ、同日の定例理事会で共催が決定した。【盧載鎭】(敬称略)