「あの日」から9年の月日が流れた。11日で1万5000人を超す犠牲者が出た東日本大震災から3288日。

J1ベガルタ仙台は新型コロナウイルスの影響で、7日に予定されていた神戸との「復興マッチ」をはじめJリーグ公式戦4試合が延期になる中で3・11を迎えた。今季からチームを率いる木山隆之監督(48)は兵庫県伊丹市出身で、G大阪の選手だった95年には阪神・淡路大震災に直面。指揮官の当時の経験や被災地のチームを率いることについての思いを伝えます。【取材・構成=山田愛斗】

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25年前の1月17日、国内で初めて震度7を観測した阪神・淡路大震災が起こった。G大阪に在籍していた木山は震災当日、大阪市と京都市の中間ぐらいに位置する枚方市の自宅マンションにいた。「ガス爆発みたいな感じで『どーん』と音がして、マンションが『どんどんどんどん』と縦に揺れて、爆発したのかと思った」と午前5時46分の発生時刻を振り返る。

翌日から新シーズンへ向けて練習スタートする予定だったが当然中止に。テレビをつけると信じがたい光景が広がっていた。「神戸の街が燃えていて、僕の実家から10キロもないところの高速道路が倒れていた。ヘリコプターからのいろんな映像を見て『まずい』と思った」。枚方から伊丹の実家に帰ろうと電話したが、混線状態でつながらなかった。

それでも午前8時ぐらいに自宅を出て車で伊丹へ。高速道路を使えば通常1時間ほどで行ける道のりが、高速が封鎖され下道も動かず10時間以上かかった。午後7時ぐらいに実家に到着。水道や電気は使えなかったが、母と祖母の無事を確認した。

実家は全壊ではなかったものの後に取り壊すことになった。「神戸のときは自分の目を疑うような光景をたくさん見た。家が壊れ人がそこで亡くなっているのとかも近くであったし、こんなことが起こるのかと思った記憶があります」と回想した。

9年前の11年3月11日、午後2時46分に宮城県内では最大震度7が観測された東日本大震災が発生した。仙台市内では今季始動日の1月7日に選手、スタッフが慰霊に訪れた若林区の荒浜地区が甚大な津波被害を受け、151人の死者・行方不明者が出た。

当時J1清水のヘッドコーチだった木山は、震災発生時は静岡にいた。ホーム戦前日でホテルへの移動中に大きな横揺れがあり、揺れが落ち着いた後にテレビをつけると、ものすごいスピードで押し寄せる津波が映し出された。「テレビでリアルタイムに見ていた場所はここなんだな」。当時と現在の荒浜地区をつなげた。

月日が流れ復興が進む一方、津波が来た場所がさら地のままだったり、住民らが避難した荒浜小が震災遺構になるなど、いまだに深い傷痕が残る。「一番感じるのは僕らはサッカー、スポーツで生活していて、こんな幸せなことはない。今でも家がなくなり、大変な思いをしている方がいる。だからこそ戦う姿、立ち向かう姿をより見せないと東北の仙台にあるプロチームとして申し訳ない。その思いは被害が大きかったところに行くと強くなるというか『よし頑張らなきゃな』と感じます」と語った。

東北に拠点を置くプロチームが被災者を勇気づけた。仙台は11年のJ1で4位。初めて1桁順位を成し遂げ、12年には終盤まで優勝を争い2位と2年続けて好成績を収めた。そして13年にはプロ野球の楽天も続き、球団初の日本一に。田中将大投手(現ヤンキース)が開幕から24勝0敗とレギュラーシーズンで圧倒的な数字を残し、日本シリーズでは守護神としても活躍。復興の象徴である両球団は底力を見せた。

被災地のチームを率いることの意義については「『苦しまれた方たちの心の支えに』というスタンスで東北のプロチームは活動してきたと思うし、その最先鋒(せんぽう)に立っていたのがベガルタと楽天。今度は自分がそこのチームの監督になる、チームを率いるというときに、その思いを強く引き継いでいくという思いは当然ある」と話す。

木山は清水の一員として躍進する仙台を肌で感じた。「テグさん(手倉森誠監督)のチームと対戦し、選手や監督の頑張り、戦術的なこと以上の何かを背負ってるというか、鬼気迫るプレー、勝負に対する熱がものすごく強かった印象がある。だからこそあの順位を勝ち得たのかな。『希望の光になる』という思いをチームで共有し、それを当時の選手たちはピッチで出し尽くしていたと思う。そういう思いは時間がたってもなくしてはいけない」と言葉に力を込める。

仙台は今季、12年以来の1桁順位、そして初タイトル獲得を目指す。「我々が戦う姿や頑張る姿を見せ続けることが(被災者の)一番大きな励みになると思うので、しっかり胸に刻んで戦っていきたい」。ベガルタはこの先ずっと希望の光であり続ける。(敬称略)

◆木山隆之(きやま・たかし)1972年(昭47)2月18日生まれ、兵庫県出身。筑波大から94年にDFとしてG大阪入り。札幌、水戸でもプレーし02年に引退。03年に指導者へと転身し、筑波大監督を務めた。Jリーグでは08~10年に水戸、12年に千葉、15~16年に愛媛、17~19年に山形を指揮。20年に仙台監督に就任した。11年に清水ヘッドコーチなどの経験もある。監督としてJ2通算142勝110分け129敗。家族は妻と1男1女。