「逆転のPL」魂がJリーグにも注入されることになった。ガンバ大阪は14日、大阪・吹田市内で取締役会を開き、新社長に小野忠史副社長(58)の就任を発表した。

4年間務めた山内隆司社長(63)の退任により、小野氏が指名された。新型コロナウイルスの影響で全公式戦が中断しているJリーグ。その逆風の中で第1歩を踏み出すことになった。

新社長の小野氏は大阪・河内長野市生まれで、名門・PL学園硬式野球部出身。78年夏の甲子園で悲願の初優勝を飾った「逆転のPL」の一員だ。オールドファンなら、この夏のPL学園の伝説を知らない人はいないはずだ。

当時は西田-木戸の3年生バッテリーが投打の軸。小野氏は2年生ながら背番号15、内野手の控えでベンチ入りした。予選の大阪府大会など公式戦の出番は、代打や守備要員に限られていたが、甲子園でこの15人の中に入れた事実だけでも実力が分かる。

甲子園の準決勝中京(愛知)戦では4点差を追う9回裏、4番西田の強烈な一塁線への三塁打を皮切りに同点に追いつき、最後は延長サヨナラ勝ち。日刊スポーツのカメラマンが撮影した当時の写真の中に、ベンチから飛び出す小野氏の1枚があった。

高知商との決勝は2点を追う9回裏、一気に3点を奪っての逆転サヨナラ優勝となった。ドラマにもないような逆転劇の連続。日本一となり、校歌を口にする小野氏の写真もあった。

この第60回記念大会から甲子園のベンチ入りは1人増えて15人になっており、小野氏ら1、2年生には幸運だったかもしれない。一方、エース西田(のちに広島入り)を筆頭に、木戸(同阪神)、金石(同広島)、谷松(同ヤクルト)らプロ予備軍のような3年生が多くおり、レベルの高さは想像を絶する。桑田、清原のKKコンビが誕生するのはこの5年後だ。

実際に甲子園優勝を経て秋から、小野氏は右投げ右打ちの強打の三塁手として主力に定着した。翌79年春のセンバツでは3番三塁小野、4番一塁小早川(のちに広島入り)の打線で全国ベスト4に輝いた。

高校卒業後は東洋大、松下電器(現パナソニック)で野球を続け、引退後はコーチも経験した。その後は社業に専念し、営業部門の責任者となり、19年4月にG大阪の副社長に就任していた。関係者は小野氏のことを「スポーツマンながら営業経験もあり、物腰がやわらかい人」と語る。

社長就任にあたり、小野氏は「(クラブを支える人への)感謝の思いを胸に、5年間遠ざかっているタイトル奪還を目指す」とのコメントを発表した。情熱的だった山内社長からバトンを受けた新社長は“逆転のPL”から、今度は“逆襲のガンバ”の伝説を築くことになる。【横田和幸】