セレッソ大阪初代監督はブラジル人のパウロ・エミリオさんが務めた。ちょうど4年前の16年5月16日、母国でリンパ腫のため80歳で亡くなった。96年5月21日に引責辞任してからも、丸24年。現在の強豪クラブへの礎を築いた、指揮官の功績を振り返った。

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関西で最初にJリーグ加盟が決まったのがガンバ大阪で、その後にC大阪、京都サンガ、ヴィッセル神戸と続いた。各クラブの歴史は20年以上となり、それぞれのカラーが定着した。C大阪といえば、記者の主観では「家族的」「庶民的」になる。

94年に58歳で来日したエミリオさんは、「チームはファミリー(家族)」と言い続けた人だった。94年のJFL優勝でC大阪を悲願のJリーグ昇格に導き、昇格1年目の95年(年間8位)と、96年5月の途中退任まで約2年半、指揮を執った。

24歳で現役を引退、26歳からブラジルで監督の道を歩んできた。1歩間違えれば選手の個性が衝突し合う母国での経験から、日本では団結心を真っ先に訴えた。弁護士の資格も持ち、頭脳明晰(めいせき)ながら、基本は笑顔を絶やさない“おじいちゃんキャラ”だった。

直接指導を受け、現在もクラブに残る数少ない存在が森島寛晃社長(48)だ。95年に日本代表入りも果たしたMFは、ブラジル人監督の教えを胸に刻んできた1人だ。

「みんなで目標を達成していくには、誰1人として違うところ見てはダメ、『チームは家族』と教えられた。そこからセレッソの歴史が始まり、みんが1つになってJリーグ昇格が決まった。昇格決定の瞬間は、今も忘れられません。エミリオさんたちが、チームの土台を作ってくれたと思っています」

単に仲良し集団を作ろうとしたわけではない。根本では熱のあるプレーを求めた。JFL時代、森島やブラジル人のマルキーニョスといったタレントがいたにもかかわらず、ある試合でチーム全体が覇気のないプレーをしたことがあったという。

そのハーフタイムの控室でエミリオさんは怒り、興奮し、持っていたバインダーを自らの口に誤って直撃させ、歯が折れてしまったというエピソードがある。

ポルトガル語の通訳として当時、控室にいた長谷川顕さん(50=現ホームタウングループ長)は振り返る。

「監督は『君たちはもっとできる』というメッセージを伝えたかった。表向きは紳士で優しいおじいちゃんだったが、とにかく負けず嫌い。ただ、セレッソの間違いなく礎を築いた人です。『チームは家族』は常に言っていて、今でいう『ワンチーム』を求め続けたことで、一致団結する伝統が生まれたと思います」

思想だけではない。激しい守備をベースにした、堅守速攻のカウンターで94年度天皇杯は準優勝。Jリーグ昇格決定直後とはいえ、JFLのクラブが格上を相次いで破った。特に準決勝の横浜マリノスには延長の末、2-1で競り勝った。クラブ史上に残る魂の入った勝負だった。

DF村田一弘(51=現U-23監督)の先制ダイビングヘッドや、ブラジル人のDFトニーニョの決勝点など、いずれもDFが得点するという攻守一体のサッカーを演じた。主将のMF梶野智(54=現チーム統括部長)も、個性豊かな選手をピッチでまとめた。

昨季はJ1最少失点(34試合25失点)を記録したように、最近は「セレッソといえば堅守」のイメージが定着した。その伝統は、OBたちが築いたものでもあった。

エミリオさんの時代、練習場は兵庫・尼崎市内のヤンマーの施設を使用していた。今ではありえない土のグラウンドで、選手の着替えやミーティングは徒歩5分の「三花寮」で行った。設備では大学、高校以下だったかもしれない。

老朽化の進む寮の玄関には前身ヤンマーのレジェンド、釜本邦茂のパネルが飾られていた。そこでチームは意思疎通を図った。選手はもちろん、エミリオさんは文句一つ言わずに、プロの仕事に徹した。「庶民派」と呼ばれる源は、親しみやすい選手の性格とともに当時の環境にもある。

「エミリオさんは当時、こよなく愛した尼崎の三和商店街で買い物をし、オフになれば奈良や京都に出かけた。カメラで撮影し、写真を現像に出すのを楽しみにしていました」と長谷川さんは懐かしむ。

C大阪は現在、大阪市此花区の舞洲(まいしま)に国内屈指の練習場とクラブハウスを持つ。あの時代から20数年がたち、17年度には天皇杯など2冠を獲得する強豪クラブへとなった。ただ、スペイン人のロティーナ監督以下、気さくなチームカラーは今も変わらない。森島社長も「チームは家族」と言い続ける。エミリオさんが残した“家訓”は脈々と受け継がれている。【編集委員=横田和幸】