鹿島アントラーズの元日本代表DF内田篤人(32)が、ガンバ大阪戦で14年半の現役生活を終えた。味方の負傷で1点を追う前半16分に緊急出場。クロスを上げ続け、後半ロスタイムにはサイドチェンジのロングパスで1-1の同点弾の起点となった。スライディングタックルでイエローカードをもらう場面もあり、最後の瞬間まで闘志あふれるプレーで勝利のためにひた走った。

   ◇   ◇   ◇

最後にドラマが待っていた。目安いっぱいの後半ロスタイム5分、右サイドの内田は前線へ大きくサイドチェンジした。これを起点に抜け出したMF荒木が中央へクロスを送り、DF犬飼が頭で同点弾を決めた。劇的な展開にも、テレビ中継のインタビューで「いろんな感情が出て難しい試合にしてしまった。勝ち点3が欲しかった」。最後まで鹿島の選手らしく、勝利を逃したことを悔いた。

出番は予想外の形で訪れた。前半13分、右サイドバックで先発したDF広瀬が負傷。駆け寄ったチームドクターがベンチに向かって「×」を示すと、会場がどよめいた。1点を追う前半16分にピッチへ立ち、MF三竿からキャプテンマークを譲り受けた。鋭いクロスを何本も供給し、スライディングタックルで警告を受けた。闘志あふれるプレーで味方を鼓舞した。

戦力として十分なプレーを見せたが、古傷の右膝から太ももまで伸びたテーピングを巻き直す場面もあった。体は満身創痍(そうい)。昨季は「若手は100%で動ける体があるならやるべき」と、自身の身上を重ねて話したこともあった。万全の状態で臨んだはずの12日のルヴァン杯清水戦で、今の限界を知った。引退セレモニーでは「先輩たちが選手生命を削りながら日々努力する姿を見てきた。その姿を今の後輩に見せることができない。サッカー選手として終わったんだな、と考えるようになりました」と声を震わせた。

14年2月に右膝を負傷するも、同年のワールドカップ(W杯)W杯ブラジル大会でリベンジするため「無理のしどころかな」と保存療法を選んだ。W杯では世界に通用するプレーを見せたが、15年3月には右膝を再び負傷、6月に手術を受けた。復帰まで1年9カ月のブランクは、選手生命に大きな打撃を与えた。

それでも功績は大きい。10年W杯南アフリカ大会で出番なく終わった悔しさを胸に、同年夏にドイツへ渡った。FWカズらが切り開き、MF本田らが可能性を広げた海外への道。内田はシャルケで欧州CL日本人最高のベスト4と結果を残した。176センチ、67キロと線は細いが、スピードや技術、頭脳で世界と渡り合えると証明し、日本人の地位を向上させた。

32歳での引退はあまりにも早すぎるが、セレモニーの最後を「すべての人たちに感謝します。また会いましょう」と結び、子ども2人と場内を一周した。いつか別の立場で、選手として果たせなかった思いを遂げることを、日本中が願っている。【杉山理紗】

◆内田篤人(うちだ・あつと)1988年(昭63)3月27日、静岡県生まれ。清水東高から06年に鹿島入り。07~09年のJ1の3連覇などに貢献。10年夏にドイツの強豪シャルケへ移籍。10-11年シーズンに欧州CL4強入りも果たした。ウニオン・ベルリンを経て、18年に鹿島復帰。日本代表では国際Aマッチ74試合出場2得点。W杯は10年南アフリカ大会と、14年ブラジル大会に日本代表として参加し、14年は1次リーグ全3試合に出場した。ポジションはDFで右サイドバックで活躍。15年5月に結婚を発表し、16年に第1子となる長女が誕生した。愛称ウッチー。176センチ、67キロ。