コロナ禍の特別なシーズンとなった今季、川崎フロンターレは圧倒的な強さで、首位を独走し、4試合を残しての最速優勝を飾った。 社名を「富士通川崎スポーツマネジメント」から、チーム名と同じ「川崎フロンターレ」に変更してから20年。スポーツの根付かない街といわれた川崎で愛されるクラブに進化した。社名変更を決断し、強豪クラブの礎を築いた武田信平元会長(現日本アンプティーサッカー協会理事長)の地域密着への思いを「川崎の街がブルーになった」と題して3回連載する。  

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09年にはチームのあり方を問われる出来事があった。ナビスコ杯(現在のルヴァン杯)決勝でFC東京に敗れた後、表彰式で一部選手にガムをかむ、メダルを外す、握手を拒むといった問題行動が見られたのだ。この様子は物議をかもし、クラブは準優勝の賞金5000万円の辞退を申し出た。しかし、ナビスコ社とリーグは「社会貢献などに有効活用してほしい」と、返上を認めなかった。

5000万円で何ができるか-。慎重に検討を重ね、川崎市内の学校にサッカーボールを配る、図書館に備品を寄贈するなど、地域のために賞金を活用していった。ひときわ注目を浴びたのは、Jリーグの海外研修プログラムで英国へ視察に行った社員が提案した、「オリジナル算数ドリル」の作成だった。

実現にあたって、市内の小学校に問題作成の協力を呼びかけたが、賛同してくれたのは1校のみだった。「問題はサッカーに関係あること、川崎市に関係あることに限定して、問題集の中に選手をちりばめたんです」。そうしてできあがったドリルは評判を呼び、翌年には市内の小学6年生全員に配布するに至った。

思わぬ縁にも結ばれた。翌11年に東日本大震が発生。ドリル制作で関わった川崎市内の先生づてに、陸前高田市の小学校で教材が津波に流されたことを知った。算数ドリルの残数は約800部。MF中村のサインを入れ、練習着やサッカーボールと一緒にトラックに載せ、陸路で届けた。「すごく喜ばれましてね。ある親御さんは、『津波を理由に勉強しなくなったけど、ドリルをもらってもう1度勉強に向かう姿勢ができました』と言って、とっても喜んでくれたんですよ」。15年には陸前高田市と友好協定を締結。現地でのサッカー教室開催、子どもたちをホームゲームに招待する「かわさき修学旅行」の実施など、現在に至るまで交流は続いている。【杉山理紗】