全国高校サッカー選手権は、28日の関東第一(東京B)-中津東(大分)の開幕戦(国立)を皮切りに、100回大会を迎える。1回大会は大正時代、大阪の地で始まった。55回大会からは、首都圏移転。その背景とは-。テーマソング「ふり向くな君は美しい」の誕生秘話は-。日刊スポーツでは今日から8回にわたって連載をスタート。「高校サッカー百蹴年」と題し、さまざまな観点から歴史をひもとく。1回目は、高校野球発祥の地で“おまけ”で始まった「選手権」。

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大阪の中心地・梅田から電車で10分。阪急豊中駅。南口から続く直線の道を歩いて、約7分。住宅街を抜けると、それはあった。「豊中グラウンド跡地」。当時2万平方メートルあった敷地は、現在445平方メートル。「高校野球発祥の地記念公園」として歴代優勝、準優勝校の名が列記されている。駅近くには、高校ラグビーのモニュメント。だが、サッカーの文字はどこにもない。ここは「高校サッカー発祥の地」でもあるのに。

豊中グラウンドは、1913年(大2)5月に開設された。翌月には、開場記念試合として、慶大-米スタンフォード大の日米野球戦が開催。2年後には「夏の甲子園」の前身「全国中等学校優勝野球大会」がスタートした。

輝かしい野球史の陰で、サッカーはひっそりと始まった。1回目は17年度。18年1月に「日本フートボール優勝大会」が、同グラウンドで開かれた。ラグビーとの合同開催。ラグビーの単独開催は学校数の問題で難しく、サッカーは“おまけ”。これが「全国高校サッカー選手権」の始まり。参加はラグビー3校、サッカー8校だった。

同じ18年には「関東蹴球大会」と「東海蹴球大会(全国ア式蹴球大会)」も始まっている。大日本蹴球協会(現日本サッカー協会)設立(21年)よりも前、3地域はバラバラだった。

25年度の第9回大会からいち早く全国予選を導入したが、各地の「全国大会」は相変わらず。各地域協会と主催、後援する各新聞社の勢力争いで、一本化しなかった。ようやく他の大会を終了して関西が唯一の「全国大会」になったのは34年。主催に加わった大日本蹴球協会の指示だった。

戦争での中止をはさみ、学制改革で48年度から「全国高校選手権」に。宝塚球場、甲子園球場などで行われてきた大会の主会場は阪急電鉄の参画で西宮球技場になった。基本的に花園開催前のラグビーと同会場、試合は1日おきだった。

大会の継続がピンチになったのは60年代だった。全国高校体育連盟(高体連)が63年に「高校総体」を始めたからだ。当時、高校生の全国大会は年1回(選抜大会は70年から)。高体連はサッカーにも選手権の夏移行を迫ってきたのだ。

ラグビーは拒否、サッカーは内部で意見が割れた。高体連サッカー部は夏移行に賛成したが、日本協会は冬の選手権継続を主張。結局、選手権は第1回から支えてきた毎日新聞が主催を降り、高体連も離れて日本協会の単独開催となった。資金的に苦しい日本協会の運営で参加チームは32から16と半減。大会を続けることも難しくなっていた。

救ったのは68年メキシコ五輪の銅メダル獲得。サッカーブームは高校にも影響した。69年度の第48回大会ではエース永井良和を擁した浦和南(埼玉)が総体、国体との「3冠」を初めて達成。同校をモデルにした漫画「赤き血のイレブン」がテレビアニメになった。

もっとも、ブームは一瞬だった。大会活性化へ、首都圏移転もささやかれ始めた。埼玉、静岡、広島が高校の「御三家」と言われた時代、関西の意地をみせた高校があった。【高校サッカー取材班】(つづく)