大会のターニングポイントは第55回大会、1976年度(昭51)の首都圏移転だった。「国立」が聖地になり、高校サッカー=日テレ(日本テレビ)のイメージも定着した。ただ、日テレの狙いは「高校」だけではなかった。「プロ選手の供給源を強化する」という壮大な計画。話は、半世紀前にさかのぼる。

メキシコ五輪の銅メダルに沸いた68年、11月に日本サッカー協会野津譲会長が読売新聞の正力松太郎社主を訪ねた。「W杯を目指すにはプロが必要。プロ野球巨人を持つ読売でプロサッカーチームが持てないか」という相談だった。Jリーグ発足の20年以上前、読売新聞社はこれを受け、翌69年に読売クラブ(現東京ヴェルディ)を創設した。

問題があった。プロチームに供給する選手を育てる必要性だ。プロ野球に続くコンテンツを探していた日テレが、この難題に向き合う。当時、日テレの放送権獲得に尽力した坂田信久氏は「中学か、高校か、大学か。いろいろ調べて高校にした。決め手は指導者の熱意だった」と話した。

日本協会と交渉を始めたものの、協会側は慎重だった。日テレはテレビの力を示すために、70年8月に全国11校を読売ランドに集めて「研修大会」を開催。これを全国放送した。当時最強だった浦和南(埼玉)の参加で、大会は大成功。第49回大会(70年度)で決勝を含む8試合を放送した。

同年の決勝は、それまで放送してきたNHKと異例の「同時中継」だったが、71年度からは独占中継。NHKからの移行の条件となった「全国中継」実現のため、ネット局以外にも頼み全試合を中継した。準決勝以降は全国、当該試合を地元局が流す態勢ができた。

ただ、放送が始まっても問題は山積みだった。何より観客がいなかった。スタンドの入りは、放送の成否に直結する。甲子園の野球は全校応援しても、地方の高校が大阪までサッカーを見に来ることはない。「全国の高校を回って応援を頼みました」と坂田氏。「このままでは、発展はない」という現場の焦り。首都圏移転が現実味を帯びた。

坂田氏は「関西の先生たちが手弁当で作ってきた大会。首都圏に移すのは心苦しかったし、ずいぶん怒られました。だからこそ、成功させなければと」と振り返る。日本協会との交渉、高体連サッカー部会での話し合い。75年夏、高体連サッカー部会で承認され、首都圏での開催が決まった。

関西最後となった第54回大会(75年度)、浦和南は決勝で静岡工(静岡)を2-1と破り優勝した。2得点した主将が現日本協会の田嶋幸三会長。東京の自宅から名将松本暁司監督を慕って片道2時間を通った熱血漢は「あの時、優勝していなかったら、今の僕はない。当時は体育の先生になりたかったから。高校サッカーに感謝」と話す。

首都圏初開催の第55回(76年度)決勝で、浦和南が連覇を果たす。日本リーグでも閑古鳥が鳴いたスタンドが満員になったのを見上げて、坂田氏らは涙したという。高校サッカーの変革は、後に訪れるプロ化への狼煙(のろし)だった。【荻島弘一】(つづく)