2002年ワールドカップ(W杯)日韓大会で日本代表を監督としてベスト16に導いたフィリップ・トルシエ氏(67)が、W杯カタール大会を振り返る特別企画「トルシエ主義」を、本日から3回連載でスタートする。
第1回のテーマは「日本代表」。期待されながらベスト8進出を逃した要因と課題について、世界と日本を熟知する男が独自の視点で分析した。【取材・構成 首藤正徳 通訳フローラン・ダバディー】
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端的に言えば、日本にとって今大会は成功だったと思う。目標のベスト8進出は達成できなかったが、ベスト16で対戦したクロアチアは、10年のパラグアイや18年のベルギーより強かった。少しずつではあるが日本は強くなっている。
1次リーグでは優勝経験国のドイツとスペインを破り、日本中に大きな感動をもたらした。サッカーの熱が全国に広がり、子どもたちに夢と希望を与えたことは、普及という面から考えても良かったと思う。
一方で厳しい見方をすれば、ベスト8は近そうで、まだ遠いということだ。私が監督を務めた02年大会から20年がたつが、日本選手がそれほど進化したとは思っていないし、代表チームが著しく強くなったとも思えない。
この20年間で日本はコーチング、トレーニング、フィジカル、医療とあらゆる面で進歩を遂げ、膨大なお金も投資して、取り巻く環境は向上した。でもアジアの恵まれない国との差は拡大したが、世界トップレベルの大国との差は依然として縮まっていない。
確かに日本は欧州組が多数派となり、有望な若手も大勢いる。でも彼らがプレーしているのはプレミアやブンデスの中堅クラブ。欧州チャンピオンズリーグ(CL)で上位を争うようなトップクラブではない。
今回、ベスト4に進出して旋風を巻き起こしたモロッコは、大多数の選手が欧州のクラブに所属し、主力のDFハキミはパリ・サンジェルマン(SG)、MFジエシュはチェルシーと、日本選手よりワンランク上のクラブでプレーしている。そこでの経験が大きな力になった。これは小さな違いだが、大きな差だ。
例えば今大会でインパクトを残した三笘の才能は、マンチェスターCのイングランド代表MFフォーデンに匹敵するものがある。スピード、ドリブル、そしてサッカーIQも同じように極めて高い。でも所属クラブの差が歴然としている。環境で差が広がるのだ。
26年大会は伊東、三笘、久保、南野、田中の5人が中心となるだろう。ただ彼らが簡単にトップクラブに移籍できるとは思えない。今大会以上の活躍を願いたいが、大きくは変わらないと思う。だが次の30年はまた異なるはずだ。8年という時間がある。サッカーは急速にうまくならないとしても、語学力を磨き、環境にもっと溶け込んで、上に行くために人間として何をすべきかを考えてほしい。
日本サッカー界もより根本的かつ大胆な議論をしなければならない。
日本の強化育成システムは本当にこのままでいいのか。日本の選手は世界に比べて才能が開花するスピードが遅すぎないか。もっと若い年齢から世界基準を意識した戦術の理解が必要ではないのか。
日刊スポーツをはじめ日本のメディアは、次期監督候補について盛んに報じている。もちろん森保監督の続投でも問題はないと思うが、海外の有名監督がきたとして、果たして選手にそれを受け入れるだけの能力、対応力があるのか。おそらく簡単には変わらないだろう。
Jリーグでは海外のトップ選手が姿を消し、大物監督もいなくなった。今大会は川崎Fの山根が頑張っていたが、国内に戻るとまるでテンポが違うので、肌で感じた世界レベルでのプレー感覚を失ってしまう。Jリーグからハキミやジエシュを輩出することはできないだろう。
今、世界の国々は自国にルーツを持つ若い才能を海外からスカウティングする努力をしている。モロッコは26人中半数以上が外国生まれ。オランダやイタリア、フランスなど強豪国の育成システムの中で育ち、最終的にその力をモロッコに反映させた。そのやり方が望ましいかどうかは別問題として、代表強化の一番の近道になっている。
久保も10歳からバルセロナの下部組織で育った。日本では小さい子どもが家族と離れて海外で生活するのは、とても難しいことだ。しかし、そこまでやらなければ、世界との差は早々には縮まらないだろう。
他国も同じような進化を遂げる中、日本はこのままでは10年後も20年後も大きくは変わらない。その現実を日本サッカー界はもっと危機感を持って受け止め、大きな改革をしなければならない。できることはたくさんあるはずだ。
私は日本のサッカーを否定しているわけではないし、日本選手に才能があることもよく分かっている。だからこそ、もっともっと上を目指してほしいと思い、あえて警鐘を鳴らした。“愛のむち”だと思ってほしい。
◆フィリップ・トルシエ 1955年3月21日生まれ。パリ出身。現役時代はフランス2部でDFとしてプレーし、28歳で引退。ナイジェリア代表監督として98年W杯予選を突破し、本大会では南アフリカ代表を指揮し、大会後に日本代表監督に就任。02年W杯日韓大会でベスト16進出。カタール、モロッコの代表監督を経て、08年から当時JFLのFC琉球総監督を2年務めた後、中国やトルコなどのクラブを指揮。20年に日本サッカー殿堂入り。