1986年W杯メキシコ大会でアルゼンチン代表を優勝に導き「神の子」と呼ばれたディエゴ・マラドーナ氏が25日、ブエノスアイレス郊外の自宅で死去した。同国メディアによると、心不全を起こしたという。10月30日に60歳になったばかり。栄光と挫折の明暗が色濃い、波瀾(はらん)万丈の人生だった。

   ◇   ◇   ◇

マラドーナ氏とは1歳違いで、今で言うならバルセロナのメッシのような、同世代のスーパースターだった。サッカー経験者ではない自分でも、W杯での活躍に胸躍らせアルゼンチン代表を応援したものだ。

32歳だったマラドーナ氏をブラジル・サンパウロで取材したのは、93年3月27日のことだった。麻薬不法所持による3カ月の出場停止処分が明け、スペインのセビリアでプレーしていた。当時、F1のブラジルGPの取材で現地を訪れていた。マラドーナ氏がブラジルに来ているという情報を得て、無理を承知でインタビューを申し込むべく代理人に接触した。

現地通信員を通じて何度かのやりとりがあったが、色よい返事はなかった。完全にあきらめ、せめて試合でも見ようとモルンビー・スタジアムでサンパウロFC-セビリア戦を見た。その帰りに、代理人から「マラドーナが会うと言っている」と通信員に連絡が入り、当時サッカー界でも最も難しいと言われた単独インタビューが実現した。

マラドーナ氏は宿泊しているブラジルトン・ホテルのラウンジのバーに1人でやってきた。ビールジョッキを片手に、15分の約束が30分になってもご機嫌に話し続けた。スターへの道が日本で始まったこと。最後は日本でプレーして終えたいこと。翌年に迫ったW杯米国大会への意欲。

終始笑顔のスーパースターに、こちらも夢見心地だった。取材が終わると、握手を交わした。165センチと自分より小さいマラドーナ氏の手は分厚く、大きくて力強かった。今でも悔やまれるのは、一緒に記念写真を撮らなかったことだ。【桝田朗】