政府の緊急事態宣言が延長され、スポーツ界も「自粛」状態が続いている。日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

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「さらし者になった方がいい」

12年2月27日、ロンドン五輪出場の夢破れた川内優輝(当時25=埼玉県庁、現在はプロ)は、埼玉・春日部高に頭を丸めて出勤した。前年12月の福岡国際で日本人最上位の3位(2時間9分57秒)で有力候補に名乗りを上げていたが、「本番」と豪語して臨んだ2月26日の東京で14位と惨敗。3枠の代表入りは完全に遠のいた。その翌日、頭を丸めた衝撃的な姿で現れた。

「応援してくれた方がたくさんいた。何らかの形でけじめをつけ、誠意を示したかった」

青みがかった五厘刈り。報道陣の前に直立不動で臨み、神妙な面持ちで語った。母美加さんに連絡を取ると「そこまでしなくてもいいと言っても、まったく聞かなかったです。しょうがない」。強い覚悟を持って母にバリカンを手渡し、自らを「さらし者」にした。介錯(かいしゃく)人を携え、処罰を受け入れる武士の姿が頭の中に浮かんだ。

川内はロンドン五輪の前年、突如として現れた。11年2月の東京で日本人トップの2時間8分37秒で3位。夏に韓国・大邱で開催される世界選手権の日本代表を射止めた。当時、日本マラソン界は低迷期にあった。世界と戦えるランナーは見当たらず、世間の関心は低かった。そんな中で「公務員」という異色の肩書、昭和をほうふつさせるド根性走法、毎週のようにフルマラソンを走る常識破りの練習スタイル、実業団選手への強い対抗心。マラソンブーム再燃の立役者となった。

決して速いランナーではない。1キロ3分5秒ほどで粘り、終盤に前から落ちてくる選手を次々と拾っていく。典型的なレースが、先に触れた福岡国際。20キロ過ぎで1度は先頭集団から遅れながら、必死に歯を食いしばり懸命に前を追った。終盤には今井正人と激しいデッドヒートを繰り返し、振り落とした。記録よりも記憶に残るレースだった。

川内は常に亡き父と走っていた。レース前は必ず埼玉・加須市に眠る葦生さんの墓前に手を合わせた。父は鳥取・米子南高時代、ボクシングの中国地方王者として全国大会でも活躍した。打ちのめされてもはい上がる-。母美加さんの話に不屈のルーツを見た。その父は05年1月に急逝。あまりにも突然のことだった。以降、3兄弟の長男として家族を支えていた。

そんな背景もあって、川内の走りには心を揺さぶられるものが多かった。1度は後退しながらも、歯を食いしばって追い上げる。その姿に心の中で「川内、頑張れ!」とエールを送った。エリートでなく踏まれ続けた雑草が、自らを信じて花を咲かせようと前を向く。“現状打破”と声高に叫びながら。その愚直な姿に、こちらが励まされている気分になった。

誰よりも日本マラソン界への強い思いを持って走った。あの時代があったからこそ、黄金期を迎えた今がある。大迫傑らの勇躍を見るたびに、川内が示した「覚悟」を思い出す。【佐藤隆志】