いよいよ2日、第100回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の火ぶたが切られる。連載「100回目の箱根 今昔物語」最終回は、マラソンの父、金栗四三(かなくり・しそう)が大会の創設に込めた思いを振り返る。パリ五輪イヤーに開かれる節目の100回大会。いざ、箱根路から世界舞台へ-。
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1919年(大8)11月15日。金栗四三氏の日誌(2012年公開)に、こう記されてる。
「車中、沢田(栄一)や早大生に明春、箱根あたり迄対抗長距離リレーを催して長距離の発達を計ることに議した」
この議論を始まりとし、翌20年2月14日に第1回大会が開かれた。1912年ストックホルム五輪のマラソンに出場も、日射病で意識を失い途中棄権となってから、世界で勝つための選手輩出を使命としてきた金栗の精神が箱根には宿る。
それから1世紀。前回99回までで箱根経験者の夏季五輪代表は84人、のべ101回。唯一のメダルは1936年ベルリン大会のマラソンで銅メダルを獲得した南昇竜。日本の統治下にあった朝鮮半島の出身だった。戦後も表彰台に届かない現実が続くが、21年東京大会には過去最多10人が出場。パリへの期待も高まる。
早大4年時の08年北京大会に出場した竹沢健介氏(現摂南大陸上競技部ヘッドコーチ)は「箱根駅伝がなかったら、そもそも陸上をやっていなかった。箱根で活躍するだけじゃ満足できなくて、五輪の夢ができた」と振り返る。当時は、64年東京大会の猿渡武嗣以来44年ぶりの現役箱根ランナーの五輪挑戦として注目されたが、「今はその一歩先が必要。出るだけではなく戦う、そこに近づけていくこと」とも説く。
金栗氏が望んだ創設の大義は、100回の節目にあらためて響く。駒大の佐藤のように現役で五輪に出ることを目標に掲げる選手もいる。そのための練習方法、試合選択なども多様になっていけば、理念を体現する流れは加速していくはずだ。【阿部健吾】(おわり)