内村航平、32歳。ジョイカル所属のプロ体操選手。東京五輪を終えてオリンピックの個人総合2連覇「中」から、「中」が外れた。いまの枕ことばは何だろう。

「元キング、ですかね」。

体操世界選手権、鉄棒の公式練習で笑顔を見せる内村航平(代表撮影)
体操世界選手権、鉄棒の公式練習で笑顔を見せる内村航平(代表撮影)
公式練習で鉄棒の調整する内村(代表撮影)
公式練習で鉄棒の調整する内村(代表撮影)

嫌みではなく、本音でそう言う。7月23日、東京の有明体操競技場で、種目別の鉄棒に専念して迎えたオリンピックの舞台で、演技途中の落下という過酷な現実に直面した。失敗という表現ではくくりきれないほどの予選落ち。失うものしかないような出来事を振り返り、いま、1つの気持ちが生まれている。立場も心境も変わった内村の「チェンジ」。そして、その証明の舞台が18日に生まれ故郷の北九州で開幕する世界選手権になる。まずは、時計の針を予選落ちから2日後に戻してみる。

東京五輪、予選で鉄棒の演技で落下する内村航平
東京五輪、予選で鉄棒の演技で落下する内村航平
東京五輪、予選の鉄棒の演技で落下し、うつむく内村
東京五輪、予選の鉄棒の演技で落下し、うつむく内村

団体総合決勝のスタンドに姿はなし

7月25日、内村はオリンピック会場のどこにもいなかった。日本の2連覇がかかった団体総合決勝が行われていたが、いくら探してもスタンドに姿は見当たらなかった。誰よりも団体戦での頂点に価値を置き、自らは鉄棒に種目を絞って団体での出場の可能性がなくなっていた立場でも、技術面、精神面での後輩への助言を惜しまなかった。メジャー競技になるには1人のスターでは足りない。団体メンバー全員が金メダルを掲げることで、しかもそれが母国大会であれば、最高の衝撃になる。20年夏、苦渋の決断で種目を絞るまで、その一心だった。だから、失墜の中でも、団体で戦う4人の後輩にエールを送るのではないかと思っていた。

東京五輪、団体予選で平行棒の演技を終えた谷川航(右)を迎える内村
東京五輪、団体予選で平行棒の演技を終えた谷川航(右)を迎える内村

「もう、主役は彼らですからね」。それから2カ月後、インタビューの機会を得て、理由が分かった。「もし、あの時に僕がスタンドにいたら、メディアの方々の興味が少なからず、こちらにきてしまうかなと。それは避けたかった。戦っている彼らに100%の注目が集まってほしかった」。

予選落ちというショッキングな結果を持ってすれば、一層、関心がぶれてしまうのではと危ぶんだ。だから、会場に足は向けなかった。2日前、鉄棒で落下した後に同班で回っていた後輩たちの元に戻り、残りの演技を見守った。「あいつらはあいつらの感動のシーンを作っている最中なんだよな」。予選1位で団体決勝に進んだ頼もしさに、大きな信頼もあった。自己本位に見捨てる、そんな態度とは正反対の思いやりがあった。

東京五輪、跳馬の練習を行う北園(手前)を動画撮影する内村(後方右)。同左は谷川、同中央は亀山
東京五輪、跳馬の練習を行う北園(手前)を動画撮影する内村(後方右)。同左は谷川、同中央は亀山

「成功しなかった」プロ転向後

団体決勝が行われている時間、内村はもう選手村にすらいなかった。「ここにはいられないなと。予選落ちですからね、終わったんだと思っていたので」。後輩への思いと同時に、もう五輪の場にはいられないという居たたまれなさもあった。バーから手が離れた理由を求め続けて、「いくら考えても答えが出なくて、何でだろう、何でだろうと…」。個人、団体で金メダルを手にしたリオデジャネイロ五輪で引退しておけば…。栄光に彩られ続けたキャリアの晩年を汚す必要があったのか。後輩が躍進し、逆にいまの存在価値はなんだろうか。自尊心の痛みに向き合う時間が必要だった。

リオデジャネイロ五輪の個人総合で逆転で金メダル獲得となり雄たけびを上げ喜ぶ内村
リオデジャネイロ五輪の個人総合で逆転で金メダル獲得となり雄たけびを上げ喜ぶ内村

確かに「成功しかなかった」競技人生だった。19歳、団体と個人総合で銀メダルで世界デビューを飾った08年北京オリンピック。09年世界選手権の個人総合で初優勝を果たすと、12年ロンドン、16年リオ五輪まで勝ち続けた。40連勝の金字塔に「良い思いしかしてこなかった」と認める。練習でできることをそのまま試合に出せる、むしろ大舞台でアドレナリンが出れば練習以上が出る。落下という決定的な減点がある体操という競技では驚異の連勝街道に、「キング」という呼び名は違和感なくマッチしていた。

リオデジャネイロ五輪の男子個人総合で金メダルを獲得した内村
リオデジャネイロ五輪の男子個人総合で金メダルを獲得した内村

それが崩れていったのがこの5年間だった。両肩痛など、全身を襲う痛みが感覚を狂わせていった。17年世界選手権で途中棄権して王者でなくなると、19年全日本選手権では予選落ちし、12年ぶりに日本代表の座すら失った。16年12月に日本体操界初の「プロ」となった後の後退は、「プロは結果が求められる」と覚悟した身に、より響いた。その落日の日々の結末が、東京五輪だった。

「努力しても成功しないこともある」ことを伝えたい

「僕以上に、こんな結果で終わったアスリートはいないんじゃないかとも思います」。9月、山形で行われた全日本シニア選手権で五輪後の初試合を終えたあと、選手村を出ざるを得なかった気持ちの今を聞いた。「こんな結果」をどう捉えているのか。

「北島さんや伊調さんなど、2連覇、3連覇して次のオリンピックを目指した方も、確かに目標に届かなかったりはしてますよね。でも、僕は出場した上で予選落ち。出たからこそ、逆にその結果がきついというか。でも、いまはあそこでの失敗したことも、意味があると思えてきてます」。

2017年の世界選手権予選、跳馬の演技で左足首を負傷した内村(共同)
2017年の世界選手権予選、跳馬の演技で左足首を負傷した内村(共同)

競泳の北島康介、レスリングの伊調馨。他競技の超一流の名前を挙げ、出場したからこその過酷さをサラッと口にしながら、しかし、その表情に暗さはない。いまもフツフツとよみがえる悔恨は深いが、その経験こそに価値を置けるようになった自分もいた。

「努力すれば成功するということしかなかった僕が、努力しても成功しないこともあると経験した。望んではないですけど、でも、きっとそれは意味があることで。失敗することって、スポーツに限らずに誰でもありますよね。でも、決してそれを努力不足と捉えないで、現実としてそういうこともあると言うことで、それを伝えるのは大事なんじゃないかなと」

体操世界選手権の公式練習で笑顔を見せる内村(代表撮影)
体操世界選手権の公式練習で笑顔を見せる内村(代表撮影)
鉄棒の公式練習で笑顔を見せる橋本大輝(右)と内村(代表撮影)
鉄棒の公式練習で笑顔を見せる橋本大輝(右)と内村(代表撮影)

コロナ禍でスポーツの社会に還元できる価値が問われた。アスリートが体験している世界は特殊で、有形無形を問わずにその経験を伝えることは1つの答えがあるだろう。ただ、トップアスリートであれば、語られるのは数多くが成功体験であるはず。成功者の言葉だけが事例として蓄積していけば、失敗者の言葉に日は当たらない。「努力すれば成功する」という世界だけを自然に生きてきたからこそ、一世一代の失敗体験とも思える現実を伝えることが、その存在意義になるのではないか。

プロになった1つの理由は普及であり、子どもたちへの指導機会なども求めてきた。「引退と自分から言う必要がないと思っている」という人生の今後にも、指導は大きなウエートを締める。

「そこで伝えられることは増えたのかな。あんな体験はできないですから」。

ただ…。

全日本シニア選手権後にインタビューに答える内村
全日本シニア選手権後にインタビューに答える内村

「結果でプロセスを証明したい。いまはそうも思っています」

栄光からの挫折に価値を見いだすだけで終わるつもりはない。くしくも、コロナ禍によるオリンピックの1年延期で、同年に世界選手権が開かれる。その舞台は3歳まで育った北九州市。

この5年、決して努力が足りなかったとは思わない。肩には通算で100本以上の注射を打ち込み、思うように動かない体との葛藤に勝ってきた毎日だった。30歳を超えて挑む鉄棒の大技「ブレトシュナイダー」では、コロナ前後で根本から回転方法を変える大胆な取り組みにも挑み、世界で最も美しい離れ技を完成させていた。その過程には自負がある。「努力は裏切ることもある」。その事実に、このまま受け身で甘んじるつもりはない。

10月20日に予選が待つ。

変わりゆく存在意義で、変わりながらも示したい「いま」がある。その誇りは、「元キング」となろうとも、揺らがない。【阿部健吾】