5月24日は日本スポーツ史に深い傷痕が刻まれた日である。今から40年前、1980年(昭55)のこの日、日本オリンピック委員会(JOC)の臨時総会で、2カ月後の同7月19日に開幕するモスクワ五輪のボイコットが決まった。

80年4月、モスクワ五輪参加問題に関連するコーチ団会議で涙ながらに参加を訴えるレスリングの高田裕司
80年4月、モスクワ五輪参加問題に関連するコーチ団会議で涙ながらに参加を訴えるレスリングの高田裕司

当初、JOCの見解は参加で一致していた。直前の会議でも参加が過半数だった。ところが、当日午前に行われた日本体育協会(体協)臨時理事会で、急きょ出席した伊東官房長官が大平首相の不参加の意思を直接伝えて参加反対が決議されると雲行きが怪しくなった。当時、JOCは独立した組織ではなく、体協の中の一委員会にすぎなかったからだ。

午後のJOC臨時総会では、体協予算の財布を握る文部省体育局長から“参加すれば来年度の予算は約束できない”という趣旨の発言があった。その脅し文句に、各競技団体の代表ら多くの委員たちは、見るも無残に縮み上がったのである。投票結果は不参加29、参加13、棄権2。スポーツ界が政治圧力に屈したのだ。

前年の79年12月25日、ソ連が親ソ派政権を誕生させるためにアフガニスタンに軍事侵攻したのが発端だった。時は東西冷戦。翌年1月にカーター米大統領が、制裁措置としてモスクワ五輪ボイコットの可能性に言及。同4月12日に米国が正式に不参加を決定すると、大平首相も「日本も参加は望ましくない」と不参加の方針を表明していた。

同4月21日、競技団体のコーチ団会議に柔道の山下泰裕、レスリングの高田裕司など金メダル候補ら選手92人が出席。山下が真剣な顔で、高田が涙ながらに参加を訴えるテレビ映像は、代表選手たちの思いを代弁する象徴的なシーンとして今もボイコットを振り返る番組で繰り返し流される。

ところが当時、高田のもとには「男のくせに何泣いているんだ」との抗議電話が殺到したという。ある新聞社の世論調査ではボイコット賛成が40%を超えた。80年前後の日本はまだスポーツの認知度、成熟度が低かったのである。幻となった五輪代表選手には、JOCから認定書とバッジが渡されただけ。ほどなくして世間の記憶からも忘れ去られたのである。

ボイコットから37年が過ぎた2017年秋、当時の体操女子代表選手たちが沈黙を破って声を上げた。中心になったのが笹田(旧姓加納)弥生さん。会員だった日本スポーツ学会を通じて全18競技178人の幻の代表たちの調査に乗り出し、連絡先の判明した92人の元選手に「当時の思い」「その後の人生」「20年大会への期待」などを問うアンケートを実施した。

笹田さんは78年に最年少で体操の全日本選手権を制し、80年の五輪代表選考会も1位通過したが、高校3年のまさに絶頂期に夢の舞台を奪われていた。

「ピーク時に五輪出場機会を奪われたことはいまだに納得いきません。だから他の選手がどうやってボイコットを乗り越えて人生を歩んでいるのかずっと気になっていました。20年大会が決まって、全国で関連イベントが開催されていますが、五輪に1度も出場できなかったモスクワの代表が呼ばれることはありません。あんな経験をした私たちだからこそ、役に立てることがあるはずだと思ったのです」。

私の取材に彼女はこう語った。

アンケートは61人から回答があった。記述にはいまだ消えぬ悔しさ、怒りがにじんでいた。「スポーツ界のことを考えていたのか。外交問題のみの決断であったとしか思えない」(バレーボール女子)「ボイコット後の選手に何のケアもなく、見捨てられた」「4年後が果てしなく遠く思えて引退。その悔しさは今も消えることはない」(ともに体操女子)。

五輪出場機会を奪われた後も、幻の代表たちは大きな葛藤を抱えていた。五輪代表なのに五輪に出場していない。つまり胸を張ってオリンピアンと言えない人生を歩まなければならなかったからだ。アンケートでは「五輪代表と言っても必ず“幻”がつく。堂々と代表と名乗っていいのか? 今でも疑問に思う」(水泳女子)といった内容の意見が複数寄せられていた。

アンケートの集計の結果、82%が「ボイコットすべきではなかった」と回答した。当時の代表選手の平均年齢は23・8歳。「ボイコットが自身の人生に影響を与えたか」の問いには「影響があった」または「大変ダメージを受けた」が84%を占めた。一方で多くの元選手が「20年東京五輪に何らかの形で参加したい」との希望を書き込んでいた。

米国に追従して日本や西ドイツなど50カ国近くがモスクワ五輪をボイコットした。しかし、同じ西側諸国でも英国やフランス、イタリアなどは政府の不参加要請にも、国内オリンピック委員会は参加に踏み切った。ソ連への抗議のため開会式に参加せず、国旗も掲げなかったが、選手は試合に出場した。政治に配慮しつつ、選手を派遣する手段はあったのである。

ボイコットの反省から、JOCは財団法人として独立し、西武グループの代表だった堤義明氏が会長に就任した。民間主導の独立組織を目指した。しかし、バブル経済の崩壊、堤会長の失脚などが重なると、再び国への依存度が高まった。20年東京大会招致、スポーツ庁創設で、さらに政治主導へとかじが切られた。

今年3月24日、首相官邸で安倍首相と国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長の電話会談で、20年大会の1年延期が決まった。IOCと開催都市契約を締結しているのは東京都とJOC。しかし、その場に小池都知事はいたが、JOCの山下泰裕会長の姿はなかった。国家事業でもある五輪開催は政治主導になることは理解できるが、政治とスポーツの力関係は、80年当時とさほど変わっていないように思えた。

話を戻す。17年10月18日、都内で開催された日本スポーツ学会のシンポジウムで、笹田さんはアンケート結果を発表した。そこで幻の代表で84、88年五輪で銀メダルを獲得したレスリングの太田章氏がこんな提案をした。「モスクワの代表は同じユニホームを持っていない。五輪マークのついたものもない。聖火ランナーはユニホームがもらえる。ぜひ20年の聖火リレーで走ってほしい」。

この提案を受けて日本スポーツ学会では「幻の代表を聖火ランナーに」という署名運動をスタートさせた。ところが実現へ向けて奔走していた笹田さんは、昨年5月、病のため56歳で急逝した。同4月に顔でマスクを覆ったやせ細った笹田さんは、それでもつえをつきながら日本スポーツ学会の会合に姿を見せた。「少しは外を歩かないと」と話していたのを思い出す。

その後、JOC会長に就任した幻の代表で84年五輪柔道金メダリストの山下泰裕氏が笹田さんの遺志を継いだ。同7月の就任あいさつで組織委員会の森喜朗会長に幻の代表の聖火リレーなどの公式行事への参加を依頼した。同12月にはモスクワ五輪代表の集いの会が都内で開かれ、82人が一堂に会した。幻の代表が競技の枠を超えて顔をそろえたのは初めてだった。

今年2月から全国各地で聖火リレーの走者が発表された。その中にモスクワ五輪代表が数多く名前を連ねた。津田(旧姓内田)桂さんら署名運動を呼び掛けた体操女子代表選手の名前もあった。大会の延期にともない聖火リレーもスライドで延期されたが、今も確実に大会が開催される保証はない。それでも笹田さんらが立ち上がったことで、忘却のかなたにあった、あのボイコットに、そして幻の代表たちに、再び光が当たったのだ。その意義は決して小さくはない。今月28日が笹田さんの一周忌になる。【首藤正徳】