39年前の記憶が、脳裏に浮かんでは消えた。

目の前で繰り広げられているのは、超満員の大観衆が1つになって声を絞り出す日本へのコール。最後の1分、1秒まで逆転を信じて走り続ける教え子2人の姿だった。そこに、セピア色の記憶がよみがえってくる。後半途中から田村優と交代で入った松田力也はSOへ。田中史朗はSHとして、伏見工出身の2人がハーフ団を組んだ。その光景が、記憶と重なった。

「フミ(田中)と力也が出てきてからですね。当時を思い出していました。2人が、この大きな舞台でハーフ団を組んで戦っている。SHが自分で、SOが平尾。あの頃と重ねて、試合を見ていました」

ラグビー・ワールドカップ(W杯)準々決勝。日本は3-26で南アフリカに敗れ、4強進出の夢が散った。その試合を伏見工(現京都工学院)元監督の高崎利明さん(57)は、客席から観戦した。10月20日は、3年前に胆管細胞がんで他界した平尾誠二さん(享年53)の命日だった。元日本代表フランカーの山口良治さん(76)が、校内暴力で荒れた伏見工の監督に就任。80年度に初の全国制覇を達成した軌跡は、ドラマ「スクール☆ウオーズ」として描かれた。当時のハーフ団が「高崎-平尾」の2人だった。

「日本ラグビー界のために平尾が力を注いできて、史上初のベスト8まで導いてくれた。ここから先は、まだ日本が戦える相手ではないことも、痛感したと思う。この先の壁は今、現実にいる者たちが超えていくしかない。いい夢を見させてもらいました。これからは新たな日本ラグビーの第1歩を進んで欲しい」

2人が高校1年だった78年11月の全国高校ラグビー京都府予選決勝では、強豪の花園高校に6-12で敗れ初の全国大会出場を逃した。その帰り道。平尾さんは、京都の天神川に準優勝のトロフィーを投げ捨てたという。反骨心と努力で、2年後には日本一に立った。その伝統は後輩へと受け継がれ、このW杯に2人の日本代表戦士を送り出した。

南アフリカに敗れた直後、SH田中とSO松田は、高崎さんの席を探して、あいさつに来たという。

「ご苦労さまという言葉をかけました。フミは『最後のW杯』という思いがあったから、よく頑張った。3回のW杯に出場して、いい時代を生きた。力也にとっては、不完全燃焼のW杯だったでしょう。4年後は自分が主役になるという気持ちを抱いていると思う」

熱血教師だった山口さんは、京都市内の自宅で南アフリカ戦をテレビ観戦した。前日19日に、決戦へ向かう孫のような2人の教え子にかけた言葉は、今までになく優しいものだった。

「私として、これ以上、望むものはない。だから『ラグビーを楽しみや』とだけ伝えました。本人たちはそうは思っていなかったやろうけれど、私はもう、ここで終わってもいいという感覚やった。ケガだけはせんようにね。こんなに素晴らしい勇気と、感動を、我々に与えてくれた。これ以上、何を望むのですか。きっと平尾は、日本にこの雰囲気が来ることを思い描いていたと思います。おそらく、どこかで1人でこの試合を見ていたことでしょう。これでラグビー文化が、日本に花を開いてくれた」

日本中がラグビーに夢中になった1カ月。この濃密な時間は、人気がなかった時代を支えてきた人たちがいたからこそ、実現したものである。その中心に、平尾さんはいた。【益子浩一】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

14年5月に開かれた伏見工山口総監督の祝賀会で記念撮影する高崎氏(右)と平尾さん(高崎氏提供)
14年5月に開かれた伏見工山口総監督の祝賀会で記念撮影する高崎氏(右)と平尾さん(高崎氏提供)