20年前、日本と韓国は熱狂の真っただ中にあった。2002年サッカー日韓ワールドカップ(W杯)。アジアで初の開催は、列島に世界の風を吹かせ、数々の記憶を残した。

鯛生スポーツセンターに置かれた選手パネル
鯛生スポーツセンターに置かれた選手パネル

「中津江村」

その言葉を聞くと、カメルーンという言葉が結び付く人も多いのではないだろうか。この5月、「日本一有名になった村」のいまを訪ねると、カメルーン代表選手が集合した顔はめパネルが出迎えてくれた。

当時、合宿施設となった鯛生スポーツセンターの入り口正面に、今もどんと置かれている。聞けば、02年5月24日のカメルーン代表到着時から、ずっとそこにあるという。ただ、その下方には「20周年」を書かれたステッカーが貼られていた。

展示の前に立つ津江みちさん
展示の前に立つ津江みちさん

当時もいまも同センターの職員の津江みちさんが教えてくれたのは、その20年間で最大の出来事だった。

「村の名前が残ったんですよ」。

2005年のことだった。平成の大合併の流れに沿い、村は日田市など1市2町3村の1つになる道を選んだ。通常は「村」は「町」になる。ところが、流行語大賞にもなった名前の愛着に、子どもたち、全国からも存続の願いが届いた。村民アンケートなども行った結果、「日田市中津江村」として、日本で初の「村」の存続が決まった。

鯛生金山
鯛生金山

02年当時の人口は約1360。いまは655人(4月末)。合併したことで山から車で1時間ほど下った日田市内に移住する人も増えた。過疎化の流れにはあらがえない。ただ、村を歩くと、いまもカメルーンの記憶に触れることはできる。同センターまでの上り坂には「カメルーン坂」の名前が付き、メディアセンターが置かれた鯛生金山には、記念品などが飾られている。

展示物には、「02年以後」の物も多い。

鯛生金山の階段
鯛生金山の階段
記念で作られた黄金のスパイク
記念で作られた黄金のスパイク

「これだけ有名にしてもらったのはカメルーンのおかげだから。体が動く限りは応援する」

合宿誘致を先導した坂本休村長(当時)は、恩返しの交流を続けた。

03年、09年に大分ビッグアイで開催されたカメルーン対日本の国際親善試合には、バス8台ほどで村民400人が応援に。村長は06年から3大会のW杯で、現地でカメルーンを応援した。そして昨年には、再び「カメルーン代表」を受け入れた。

陸上、柔道など7競技の選手が東京五輪の直前合宿地として日田市を選んでくれ、1日だけ中津江村を訪れる機会があった。

「ナカツエは聖地だから」。

02年の交流を聞いていた選手たちは、コロナ禍の制約下でも訪れたいと希望し、バスに乗ってやってきた。直接の交流がかなわなかったが、沿道で手を振り、02年の時と同じように村民手作りのコースターなどを贈った。あの時といまは、確かにつながっている。

鯛生スポーツセンターのグラウンド
鯛生スポーツセンターのグラウンド
進撃の巨人ミュージアム
進撃の巨人ミュージアム

今年11月にはW杯がカタールで開催される。前回の18年大会では予選敗退に終わったカメルーン。いま監督を務めるのは、02年当時主将だったソング。8年ぶりに、村民が一体となって応援する機会が戻ってくる。

津江さんは言う。

「私たちは日本もカメルーンも応援できて2倍楽しめるんです」。

「村」という名前を残してくれた“恩人”のために、変わらぬ声援を送る。【阿部健吾】

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村民手作りのカメルーン国旗色の帽子
村民手作りのカメルーン国旗色の帽子
坂本村長が贈られたカメルーンの記念品
坂本村長が贈られたカメルーンの記念品