午前3時、大遅刻カメルーン代表を笑顔で迎えた村民たち…W杯から20年、中津江村に行ってみた
2002年のサッカーワールドカップ(W杯)日韓大会で話題となった大分・中津江村。山間の小さな村は、カメルーン代表の事前キャンプ地として全国から注目を浴びた。あれから20年、中津江村はどうなっているのか。現地を訪れ、住民の記憶とともに、そのレガシー(遺産)に触れた。(敬称略)
ストーリーズ
阿部健吾
進撃の巨人ミュージアムが
どこまでも木々が沿道を囲む、曲がりくねった山道を登っていく。レンタカーで、もう30分以上信号がない国道212号を進んでいく。クネクネと横切る蛇、フロントガラスには木の実が落ちてきて紫の模様を広げ、開け放った窓からは、木のにおいが流れ込んでくる。
「中津江村」
その看板を目にする頃には、想像力が膨らんだ。
20年前の同じ5月24日、W杯に出場するカメルーン代表は午前3時前の深夜の、街灯もない真っ暗な道を、一路、その後に日本一有名になる村へとバスに揺られていた。いま、その道を、20年後に車で走らせているのだ。
途中に通り過ぎたのは「進撃の巨人ミュージアム」。
作者の諫山創は、中津江村に程近い、大山町の出身。2005年の市町村合併で、同じ日田市に属する。いま市は「進撃」ブームに沸く。マンガは壁の中に住み、外から襲ってくる巨人におびえる人々の姿を描くが、壁の発想は、緑の山に囲まれた郷里の記憶が大きく反映されているという。面積の9割以上が森林の中津江村は、まさに、その山の奥深くにある。
小さな村が1番早く公認キャンプ地に
当時の人口は約1360人。村の知名度上昇、老朽化しつつあった施設の大規模改修も目的に、W杯の公認キャンプ地に立候補した。財政状況が厳しい中、手を挙げるだけで、わずかでも報道してもらえれば良いと考えていた。なにしろ、電車も通っておらず利便性も悪い。コンビニは車で30分かかる。立候補した全国84地区、大分県内でも他に3地区が名乗りをあげていた。ライバルに勝る要素は乏しいと思っていた。
それが2001年11月、出場国で最も早く公認地に選ばれた。まだ予選リーグの組分け前、日本か韓国か、どちらで試合があるかも分からない状況で選んでくれた、それがカメルーンだった。
村の人は国がアフリカのどこにあるのかも知らなかった。中津江中学校にはサッカー部もない。競技自体に「?」の村民も多かったという。ただ、そこからの一体感が、小さな村の類を見ないキャンプ地物語を動かしていった。
合宿施設となった鯛生(たいお)スポーツセンターの職員だった津江みちは、いまも変わらない村民の日常を教えてくれた。
「小さな村ですから、みな近所の人も顔見知りで、何かするにも地域で協力するというのは根付いてはいたんです。だからこそ、村全体でやるイベントにみなで協力してできたのかな」。
おばあちゃんが芝刈りを辛そうにしてれば、隣人がかって出る。自宅で行う葬儀がほとんどで、弔問客にご飯を出すのは近所の人。もちつもたれつで生きてきた。山間の村だからこその「思いやり」が自然、そこにはあった。
「選手たちに快適に試合の準備をしてもらおう」。
それが合言葉。行政主導ではなく、日々の助け合いの延長上にW杯もあった。手作りの応援手旗の持ち手は地元の竹を切り出し、椎茸栽培の乾燥小屋で仕上げた。紙の貼り付けは子どもたちも協力した。帽子製作のため、カメルーン国旗色の黄色、緑、赤の布地が、山を降りた日田市内の洋品店で品切れに。歓迎、激励の言葉を添えたコースター、絵手紙なども部屋に備え、到着を心待ちにした。
そんな心温まるキャンプ地作りの話題が、「日本一有名な村」になったきっかけは遅刻騒動だった。
遅刻にも心穏やか「亀さんじゃからなあ」
2002年5月19日、カメルーンは到着予定の夕刻を過ぎても、パリにいた。W杯出場のボーナスを巡り協会ともめ、日本行きの便に乗っていなかった。その一報が全国を巡ると、報道は過熱していった。村に押し寄せた報道は55社にも及んだ。連日、報じられたのは村民の姿だった。
「カメルーンは“亀さん”じゃからなあ」
誘致を先導した村長、坂本休(やすむ)のおっとりした言葉を代表に、誰も責めるような言葉は出ない。日ごろからの思いやりの文化は、緊急事態でも揺らぐ事はなかった。
結局、23日午後11時40分、チャーター便は福岡空港に降り立った。そこからバスで中津江村へ。街灯もない山道を進んでいく。午前3時20分、鯛生スポーツセンターに到着した。
待っていたのは150人の笑顔だった。手には手作りの国旗、頭にも帽子を被っていた。みな笑顔だった。
バスから降りてマイクの前に立ったソング主将は言った。
「僕たちはいま家族になりました」。
48時間の移動にもかかわらず、その暖かい気遣いに村民誰もが心を打たれた。
当時、ベースキャンプ推進本部事務局主任の片桐由美が振り返る。
「あんなに疲れてて、あんなに夜中に入ってきて、あんなに人がいたら『えっ』となるけど。言葉は通じないけど、伝わるものが彼らにあった。こっちも感じられたんです」。
それから31日の朝に出発するまでの約7日間、村は沸いた。直接の触れ合いの場は限られたが、壮行会では子どもたちが選手と一緒に花笠音頭を踊った。明るく気さくな選手たちは、おもてなしを、心からの笑顔で受け止めてくれた。
その交流が全国のテレビなどの放送網に乗った。村民の心にも変化が起きていった。鯛生スポーツセンターの職員だった佐藤栄希子も、その1人だった。
「皆さんから待っている事すらも評価してもらえたというか。応援している私達を応援してもらえた。日々暮らしてきた事、思いやりのような地域の人が大事にしている事が再評価してもらえた。『何でもない事がすごく価値がある事なんだよ』と再確認させてくれた。そのままの身の丈にあった応援で十分なんだよと分かって」
村には高校がない。中学を卒業すると、日田市内で寮生活をする子供が大半だった。出身を口にする時に、思春期特有の恥ずかしさを伴っていた「村」の響きにも、誇りが加わった。キャンプ後の出来事を佐藤が続ける。
「『私は中津江村の出身です』と言いたい子もいてくれて。田舎だからダサいではない、田舎だからできたことを子供なりに感じていたと思うんですね」
その心の動きが、いまに続く最大の遺産をもたらすことになる。
2005年、日本で初の「村」存続
2005年3月22日、「中津江村」は終わりを迎えた。平成の大合併で日田市など1市2町3村の合併となり、「日田市中津江村」になった。
ただ、「村」の呼び名は残った。通常は「町」になる。日本で初の「村」の存続だった。
片桐が教えてくれた。
「子どもたちにアンケートを採った結果、残してほしいと。全国からもすごく暖かい『残して下さい』という言葉もあったんです。村長が一番尊重したのは子どもたちの意見で、全国のみなさんの言葉も大きかった」
流行語大賞にもなった「中津江村」という呼び名は、この世に生き続けることになった。
坂本は当時よく、感謝を口にしていた。
「これだけ有名にしてもらったのはカメルーンのおかげだから。体が動く限りは応援する」
今度は恩返しの日々、そして絆をもっと太くする時間が始まった。
2003年11月、大分ビッグアイで開催されたカメルーン代表対日本代表の国際親善試合では、村内から人が消えた。バス8台に乗り込み、400人が会場へ。ビッグフラッグを作って、声援を送った。村には駐在所のお巡りさんが一人ポツンと残っていたとか。
70歳を超えていた坂本は、2003年2月にカメルーンを初訪問。パレードなどで国賓級の歓待を受けた。その後は06年、10年、14年のW杯を現地まで赴いて応援した。
村民も交流を続けた。津江はスポーツセンターの特性を生かし、使用積みのシューズを募り、カメルーンに送る活動に従事。大きな段ボールに詰めるだけ詰め、船便で何回も届けた。
2005年から始めた「カメルーン杯」と冠が付いた11歳以下の大会は、九州を中心に多くのチームを集め、いまも続く。かつてカメルーン代表が練習した芝生で、子どもたちが未来の夢を追う。
2018年には大使館のご指名で、カメルーン建国記念日祝賀会まで行った。通常は都内のホテルなどで各国の大使を集めて行う行事を、遠くの山村で行った。
そして、なにより、いまも「4年に1回」を楽しみにしている。津江が言う。
「W杯の時はパブリックビューイングをします。私達は日本もカメルーンも応援できて2倍楽しめるんですよ」
2021年7月15日、村は19年ぶりに「カメルーン代表選手」を受け入れた。東京五輪の直前合宿で、同国の陸上、柔道など7競技の選手が日田市内で調整に励んでいた。
「ナカツエは聖地だから」と、2002年の交流を聞いていた選手たちは、バルブ禍の制約下でも、訪れたいと希望した。
バスに乗り込み、あの山道を進む。村に入ると、手を振る村民の姿があった。直接の交流はかなわなかったが、記念のグッズなどを渡せた。その中には2002年と同じコースターもあった。
進む超高齢化、それでも村の名は生きる
村の人口はいま、655人(4月末時点)にまで減った。それでも、あの時の互いの思いやりから生まれた一体感は残っている。過疎化の流れは止まることはない。超高齢化も進む。ただ、片桐は悲観はしていない。
「流れを止めるのは難しいです。ただ、こんな所でもキャンプをやれたんだという誇りは残っている。だから、人口が減ったからといって、そこに悲観的な思いとかはないですね」。
津江も同じだ。
「残してもらったものは形じゃないんですよね。楽しみを与えてもらい、感謝をもらい、互いの気持ち的なつながりまでくれたんですから」。
「村」という呼び名を残してくれたカメルーンを思い、村民は今年11月のワールドカップでも、集まり、応援をするだろう。
昨夏の東京五輪を取材していて、いまも、これからも記者として問い続けたいと思っているテーマは「レガシーとは何か?」だ。
触れ合いが絶たれたあの夏の祭典は、20年後に中津江村のような、無形の財産を残せたのだろうか。
いま「進撃の巨人」で同地を訪れる人には、カメルーンとの交流を知らない世代も多いだろう。ただ、「中津江村」という名前はいまも生きる。その歴史に触れる機会もあるかもしれない。
あれから20年。かつてを楽しそうに話してくれる人々、木のにおいに包まれながら、かけがいのない遺産を感じた1日になった。