「ボブ」こと楽天の川井貴志投手(40)が現役を引退した。初対面は06年の暮れ。米アリゾナという意外な場所だった。

 正月の紙面で40歳以上の選手を特集することになった。当時巨人の工藤(現ソフトバンク監督)を取材に、2泊4日の日程で自主トレ先のアリゾナへ向かった。「来る者拒まず」を地でいく工藤は、誰に対しても非常に面倒見が良かった。拠点とするコンドミニアムに着くと「泊まっていけよ。宿代、もったいないだろ」と言われた。

 邪魔になると恐縮したが「いいから。取材はオレの部屋で」と譲らない。夜10時くらいに取材が終わり、翌朝6時の航空機で帰国するというスケジュール。コンドミニアムから最寄りのフェニックス空港までは、車で1時間30分ほどかかる。

 工藤が「倉野(信次=現ソフトバンク1軍投手総合巡回コーチ)、ボブ。コイツが1泊するから。よろしくね。じゃあ」と寝室へ消えた。非常に申し訳ない状況になったが、2人は初めてにもかかわらず「分かりました」と紳士だった。「1日くらい大丈夫。ベッドを使って」。自分たちはリビングで寝るという。

 時差ぼけは残っているし、深夜の運転も控えているので仮眠は取りたい。でも、奥の寝室で目覚まし時計を鳴らせば、翌日も自主トレのある2人を起こしてしまう…いささかの葛藤も睡魔には勝てない。寝る直前にちゃっかり目覚ましをセット、アメリカ製のけたたましいベルが午前1時30分に鳴り響いた。

 2人は寝ているようだ。抜き足差し足で消えよう。爪先で歩を進めると、むくりと大きな影が起き上がり、「お疲れさまでした。運転、気をつけて帰って下さい」。隣人を起こさぬ配慮が伝わるささやきが聞こえた。会釈すると、しっかりと返してくれる。川井にとっての普通かも知れないが、飾りっ気のないこんな優しさは妙に身に染みる。非常に気になる選手となった。

 10年に楽天担当となり、当時のお礼を言った。「あぁ、あの時の。よろしくお願いします」とまた、丁寧に会釈された。いつも変わらず黙々と練習し、ローテの谷間でいつの間にか1軍に上がり、仕事をする。「困った時のボブ」という暗号のような呼称は、投手事情の苦しい楽天にとって最大限の敬意だ。不惑までプレーしたのは自分の仕事に対していちずだったからであり、下地には人格があった。【宮下敬至】