プロレス界の祖・力道山の没後50年となる追悼記念興行で、孫の力(ちから、32)がデビュー戦を行った。「2世」の父百田光雄(65)との親子タッグでリングに上がると、祖父譲りの空手チョップを披露するなど会場を盛り上げた。力道山の時代を知る熱心なファンも多数詰め掛けた。

 プロレス興隆の歴史をつくった力道山が非業の死を遂げてから15日で50年。必殺技「空手チョップ」で巨漢の外国人レスラーを次々と倒す姿に、敗戦から復興を期す多くの人々が思いを重ねた。出身の朝鮮半島では韓国、北朝鮮とも映画化され、伝説の男の早世を惜しむ声は今も根強い。

 <新天地>戦後、テレビ放送が始まると、繁華街の広場に「街頭テレビ」が出現した。中でもプロレス中継は人気で、小さな白黒の画像に数千人が見物に押し寄せた。力道山は1951年に相撲からプロレスに転身、怒りの形相で空手チョップを放って、一躍国民的ヒーローとなった。

 「テレビとつながる新しい興行スタイルだった」。力道山についての著書がある法大講師の小林正幸さん(49)が語る。戦勝国の米国のレスラーを倒すと、敗戦のショックを引きずった日本人の心をくすぐった。

 戦前、日本の統治下の朝鮮出身力士として40年、二所ノ関部屋から初土俵を踏んだ。突っ張りを得意技に関脇まで昇進したが、50年に自らまげを切って角界を去り、真新しい格闘技に新天地を求めた。

 <デビュー>渡米するとプロレスの修業と転戦に明け暮れ、力を付けて帰国。日本にプロレスブームを巻き起こし、54年に世界タッグチャンピオンのシャープ兄弟と戦い「昭和の巌流島」と呼ばれた柔道家木村政彦との決戦を制し、実力、人気とも不動のものにした。だがレスラーとして順風満帆な人生は63年12月15日、突然最期を迎える。1週間前に東京・赤坂のナイトクラブで暴力団員の男と口論になって刃物で腹を刺された傷が原因だった。享年39。

 力道山が葬られる池上本門寺(東京)ではひときわ大きな墓の前で、腕を組んだ胸像が前を見つめる。

 <政界に>力道山は生前、朝鮮半島の出自をほとんど公にしなかった。だが63年に極秘訪問した国交正常化前の韓国で「(軍事境界線上の)板門店へ連れて行ってくれ」と依頼。板門店付近では上半身裸になって北の空へ向かって家族への思いを絶叫したとのエピソードが残る。

 親しかった元自民党の故大野伴睦氏との縁で、引退後は参院選への出馬も浮上していたという。亡くなる約半年前に結婚した妻の田中敬子さん(72)は「もし生きていたら、日本、韓国、北朝鮮で愛されたヒーローとして、関係悪化の前に手を尽くし、国際状況は全然違っていたはず」と話す。

 国境を超え人々を魅了した力道山。同じ朝鮮半島をルーツに持つ元プロ野球選手の張本勲さん(73)は「とにかく強くて見た目が格好よく、おとこ気も決断力もあった」と振り返る。「スポーツマンは政治色がない分、交流関係を築きやすい。今のような時代にこそ、リキさんが生きていればと思う」と惜しんだ。