乃木坂46、4期生の林瑠奈です。



【ミイラ取りはミイラになる、ソースは私】



ここ最近は何となく

テーマが伝わるといいなと思い、

自己紹介の後に括弧書きで

一文添えるようにしています。



何事も第一印象が肝心。

今回は早々に語呂の良い文を思いついて、

私は嬉しいです。



なんともポップな感じが

滲み出ている気がしませんか?



再び最近の話になりますが、

私はかしこまった内容や、

少々重い内容のコラムでは、

できる限り話し口調にならないように

気をつけています。



話し口調のフェーズを超えて

書き口調を徹底することは、

より純度の高い形で自分の思想や考えを

伝えることにも繫がると思っていて、

責任を実感しながら文章を書けるんです。




ただ、考えと感情のテンション感は

比例していないこともしばしば。



感情に任せてポップな文体を選ぶと、

考えていたはずものが

何も言葉にならない

なんてことが起こるわけです。



それが前回。



私としては、言いようのない感覚であったり

「なんか」という言葉に集約される

考えについて書くときは、

多少のポップさがあっても、

むしろポップな方が

伝わりやすいこともある気がするんですね。




というわけで、今回は話し口調を交えて、

ポップにいきたいと思います。



ソースは私、ですので。




「ミイラ取りがミイラになる」、

言葉自体は知っていますかね。



「ミイラを探しに行ったはずの者が、

目的を果たせずに

自分もミイラになってしまう」



という意味のことわざ。



四字熟語の本末転倒のような意味です。



私はこのことわざを、

ここ半年以内にいつだったか、

そしてどこだったかで目にしたんですね。



確かそこでは、

「ミイラ取りがミイラになる」の

代表例として、

サブカル思考の強い音楽を聴くことが

挙げられていました。



これがまさに現在完了進行形で

私の身に起きているわけです。



じゃあサブカル思考って何ぞやとなりますが、

私自身納得のいく説明をするのは

かなり難しい。



そもそもサブカルの定義は、

定義することすらやぼなものというか、

言葉の意味そのものでは測れない。



それだけおのおののこだわりが

乱立しているが故の曖昧さであったり、

時代によって示す意味の変化があります。




以前にも

「サブカルがサブカルではなくなっている」

というテーマで書こうとして

断念したことがありますが、

それほどまでになかなか手を出しづらい、

言葉にしづらいジャンルなのです。



ですから、

今回は私の思うサブカルの感覚、

かつ1つの考えだと思って

読んでもらいたい。



私が思うに、サブカルとは

自らの内的思考と向き合えるもの。



あくまでも私の観測する範囲では、

作品への自身の投影や

日頃の内省に繫がるきっかけが

多く存在するカルチャーだと思っています。



なんとなく、

実際に目では見えないものを

扱っていることが多いイメージは

ありませんか?



内的自分を重ねやすかったり

感情を素直に表現しやすくなるのは、

ここに起因している気がします。



私はこの特性を踏まえて、

「咽び」というプレイリストを

音楽アプリの中に作っています。



咽び泣くの「咽び」。



何の曲かは割愛しますが、

どれも私が感傷に浸れるものばかりです。



私は以前、歪曲(わいきょく)的な感情表現と題して、

悲しいという感情を

怒りに出力することでしか表現できない、

という話をしたかと思います。



この話をする以前から、

自分自身の素直な感情表現への助け舟として、

いわゆる「涙活」をしていたんですね。



涙活はご存じの方も多いかと思いますが、

泣くことを目的に

映画を観たり音楽を聴いたりすること。



私は、つい悲しみを怒りに

変換しそうになったときに

「咽び」プレイリストを再生することで、

正しく悲しいという感情を

発散するようにしているんです。



そうすることで、泣くだけ泣いて

感情をすっきりさせたり、

明日からの人生の励みにする。



ただ、ここで

ミイラ取りがミイラになってしまう、

「咽び」プレイリストの弊害があります。



それが、

「自分が思っていた以上に

気を落としてしまうことがある」

ということ。



私のプレイリストが

良くないのもありますが、

感傷に浸れる度合いというか、

集めている曲の程度に

かなり差があるんですね。



そうなると、

今の自分が持つ感傷度合いに

釣り合わないぐらい重い曲が

流れることもあるわけです。



感傷に浸っている時は、

程度について考える脳なんて

もちろんストップしていますから、

気づいたら落ちるところまで落ちている。



想定以上に気を落としてしまい、

すっきりしたり励みになるどころか、

その事柄を引きずる

トリガーになってしまう。



ミイラ取りがミイラになってしまう

ということです。



実際、私は今までに

何度もこれをやらかしていて、

その度に必要以上に目を腫らしています。



しかし先ほども書いたように、

感傷に浸っている時に

自分の浸れる感傷度合いをはかるのは

なかなかに難しいこと。



しかも、私の場合、感傷というのは

加速性を持っているものですから、

浸り出してからは

ぐんぐんとスピードを出して

マイナスな感情を引き出します。



これにはまってしまうと、

いよいよ自分では止められず、

落ちるところまで落ちてしまうわけですね。



だからといって、

何か対策があるわけでもないし、

そもそも対策をしてしまうのも

また違うような気がする。



自分の中で作為的に泣き始めたことを

なんとなく覚えておくぐらいがちょうどいい。



と言いつつ、これからも私は

ミイラになってしまう失敗を

繰り返すのだと思います。



だからこのコラムは

警告でも助言でもなく、

ただの紹介文です。



皆さんが共感するかどうかは

正直わからないけど、

あくまでも私の場合はこうですよ、

と示したまで。



ちなみに私は乾燥肌なので、

しょっちゅうミイラになっているのは

そろそろ危ない予感がしています。



皆さんは如何に。

(ニッカンスポーツ・コム「乃木坂46林瑠奈 負けるな!しょげるな!乗り遅れるな!」)