<日刊スポーツ:2013年8月4日付文化面より>

 放送作家、作詞家、タレントなど多くの肩書を持つ永六輔(80)。数年前からパーキンソン病、前立腺がんと闘っている。けがや交通事故もあり、車いすの生活になったが、相変わらずの旅好きで、話すことも、人を笑わせることも、変わらず大好き。テレビや政治に言いたいこともたくさんある。歯に衣(きぬ)着せぬ物言いと笑顔は健在だ。

 14年前、66歳だった永はこのページのインタビューで肩書を聞かれて「永六輔をやってます」と答えている。劇作家、小説家、俳優などさまざまな顔を持っていた人物から「権利をもらって」使っていたのだという。

 「寺山修司が『寺山修司をやってます』というのを聞いて、いいなあと思ったの。使わせてほしいって言って、しばらく同じように言ってました。今は何でしょうね。『年を取るリハビリをやってます』と答えますね」

 年の取り方を教える、ということのようだ。在宅ホスピスを広く伝えたり、乳がんの検診を啓発する会にかかわるほか、亡くなった後に戒名、葬式はどうするかなどを話すこともある。生家は東京・浅草の寺だが、父親が「戒名も法名もいらない」という人だった。お経もいらないという。

 「お経って難しいじゃないですか。僕が勧めてるのは、亡くなった友達の名前を書いておいてそれを読むの。僕だったら『渥美清、小沢昭一…』、お経はそれで十分。戒名、法名も覚えられないでしょ。当人の名前でいいんですよ。ばかばかしいからやめなさいって言ってる。(作曲家の)中村八大、(俳優の)小沢昭一の法名は思い出せないんだから、八大は八大でいいし、小沢昭一は小沢昭一でいい。僕も永六輔でいい」

 親しい友人たちの名前が出てくると、少し表情が曇った。「1人ずついなくなることは、耐えられないですね」。11年前に亡くなった妻昌子さんについても「泣けちゃう」と言う。

 「旅先で2人で行った場所に行くと、オロオロしてだめです。のろけてるわけじゃないんです。女房の写真があると言って出してくれた人がいたの。そういうのも、もうダメ。美男美女? 美男かどうかは分からないけど、美女でしたね」

 寂しさをつかの間紛らわすのは、若いころから続けてきた旅だ。1年の半分以上は旅暮らしだった。用事があれば、昌子さんが旅先に訪ねてきた。最近も沖縄や東日本大震災の被災地を訪れた。6月、日本テレビ系「遠くへ行きたい」(11日午前5時半放送)の収録で京都を訪れた時、40年来の友人瀬戸内寂聴さんに会った。京都の思い出を聞いていると、昌子さんの話になった。愛妻家は今でも変わらない。

 「寂聴さんは、僕にあいさつすると、次に背中にいる妻にあいさつするの。『ほら、後ろに奥さんいるでしょ』って。いると思えばいるんです」

 数年前からパーキンソン病と前立腺がんと闘っている。転倒で大腿(だいたい)骨を折ったり、乗っていたタクシーが衝突事故を起こすなど、不運にも見舞われ、車いすを使う生活になった。京都への旅では、孫で俳優育乃介(19)が車いすを押してくれた。

 「照れまくってほとんど話せなかったです」

 それでも、普段はほとんど会うことがない孫とコミュニケーションできたように、今の生活になって悪いことばかりではない。昔から自分のことを「男のおばさん」と呼び、言いたいことを言ってきたが、前立腺がんの治療で、女性ホルモンと同じような働きをする薬の治療をしているため、「男のおばあさん」になったと笑う。

 「嫌じゃないんです。女性の方が長生きで、平和が好きで、戦争が嫌い。生理学的なことだけじゃなく、そういう立場で女性でいたいですね。そういえば、80歳になる前くらいからモテてきましたね。みんな優しいし。安全だからだと思いますけど」

 また、パーキンソン病を患った当初はうまくしゃべることができなかったが、合う薬と治療でスムーズに話せるようになった。

 「治らないけど、悪くならないから、僕は『パーキンソンのキーパーソン』。医者も注目してるの」

 病気になって変わったことの1つは、テレビを見るようになったこと。旅番組をよく見るそうだが、NHK「キッチンが走る!」「鶴瓶の家族に乾杯」がお気に入りだ。しかし、実験放送の時代からテレビにかかわってきただけに、言いたいことはたくさんある。

 「バラエティーとか大勢出てきてくだらないことやってるのは見ないですね。最近のテレビマンが一番テレビを見てないんじゃないかと思います。どうしてもあの人を口説き落として出演させたい、というのがない。あっちに出てたからこっちも使おうって簡単に済ませようとしてる。旅番組にしても、ついでに旅番組にしちゃおうというのが多い。誰がどこへ、何のために行くかというものがないと思いますね」

 さらに「テレビに出ると、当人より偉くというか、大きく見えちゃう。人混みの中に入って取材をするためには、無名でなければだめなんです。有名になりたければテレビに出ればいいですけどね」と指摘する。しかし、無名に戻ることはできないのではないか。

 「そんなことないです。世代によってです。ラジオで女子高生に聞いたんですって、永六輔って知ってる? って。『知ってる、桜田門外の変で殺された人でしょ』って答えたんだって。それは井伊直弼だって。そんなもんですよ」

 取材も終わりになるころ、カメラマンの父親が保管していたNHK音楽バラエィー「夢であいましょう」(61〜66年)のソノシートを見て、「うわーっ」と声を上げた。自身が構成、出演し、八大さんが音楽を手掛け、渥美清さん、三木のり平さん、岡田真澄さん、黒柳徹子らそうそうたるメンバーが出演。番組からは永作詞、八大さん作曲「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」など数々のヒット曲が生まれた。

 「いやあ、うれしいねえ」とサインをし始めると、「中村八大のサインもしようか」とサラサラ。さらに「渥美清」とサラサラ。びっくりする周囲に「僕、人のサイン得意なんだよね」とにっこり。サインには妻との思い出がある。

 「新珠三千代さんがお元気なころ、新橋演舞場に行った時、お客さんが女房に『新珠さんですよね。サインお願いします』って。女房は平気な顔で『新珠三千代』って書いてました。サインを頼んだ人が僕に『三島先生もお願いします』って。僕も『三島由紀夫』って書きました。女房ってそういう人。飽きることがなかったですね」

 人を楽しませ笑わせ続けてきた。年を取っても何ら変わりがないのだ。ほかに一貫して変わらないのが、平和への思いだ。

 「戦争というものが、くだらなくて、愚かしいものかということを伝えながら仕事をしようとしています。最近、戦争をしてもいいような下地作りをしてるでしょ。本当に戦争を知らないからですよね。『遠くへ―』にも時々、戦争を体験したおじいちゃん、おばあちゃんが出てきたりしてるのも、伝えなきゃって思うから。長い間続いてる番組の責任です。長く見続けてる方に何を返せるか、ということです」

 たっぷり話を聞いた後、「あー、くたびれた! こんな風に面と向かって取材を受けるなんてあんまりないから。また次のチャンスがあれば、ぜひ」と笑った。