大橋巨泉さん(享年82)は2001年、「最後のご奉公」として参院選に当時の民主党から出馬して当選した。しかし、わずか半年後には議員辞職した。その後は「野にいて言いたいことを言う」としてリベラルな発言を繰り返してきた。最後まで憂慮していたのは日本の民主主義の行方について。病床からも安倍政権を批判していた。

 セミリタイアして季節ごとに海外を回る生活をしていた巨泉さんは、当時の菅直人民主党幹事長に口説かれて参院選に出馬した。「社会である程度の成功をさせてもらった。最後は社会に奉仕したい」というのが出馬の理由だった。

 小泉政権の全盛時で、選挙では「小さな泉(小泉)より、大きな泉(巨泉)」と訴えていたが、勢いの差は歴然で票は伸びなかった。民主党比例ではトップ当選だったが、自民党から出馬した舛添要一前東京都知事やプロレスラーの大仁田厚氏から圧倒的に差をつけられ、ショックを受けていた。

 巨泉さんは「民主党はセンターレフト(リベラルな中道左派)で行くべきだ」と主張したが、党内は右から左まで一枚岩ではなく、芸能界では大物でも一参院議員の言うことは相手にされなかった。鳩山由紀夫代表の自民党よりの姿勢も批判して騒動も起こした。結局、選挙が終われば票稼ぎの役目は終わったかのような扱いに疲れ失望し、わずか半年後に突然辞職した。世間からは「無責任だ」と激しく批判を浴びた。

 政治家巨泉は失敗だった。「政治家になったのは、僕の最大の間違いだった。巨泉という名前に泥を塗ってしまった」と後悔していた。永田町は似合わなかった。

 その後は「やはり僕は野にいて言いたいことをいうべきだ」としてマスコミを通じて発言してきた。

 一貫していたのは「民主主義を守る」という視点だった。子どものころ戦争に敗れ、信じていたものが一夜にして価値観が変わるのを経験したのが原点だった。国や政権の欺瞞(ぎまん)には厳しく批判した。2度と戦争はしてはいけない、戦争ができるような国に日本がなってはいけない、と訴え続けた。

 週刊誌の連載「今週の遺言」で、自力では書けなくなった6月27日発売の最後の回でも「安倍政権は危ない」と批判していた。権力を批判し、テレビと同じで大衆の目線に最後まで立ち続けていた。亡くなった12日は、参院選で改憲勢力が憲法改正の国会発議に必要な、議席3分の2を取った翌々日のことだった。