演出家の蜷川幸雄さんが今年５月に８０歳で亡くなってから７カ月が過ぎた。「世界のニナガワ」とも言われ、圧倒的な存在感で日本の演劇界をけん引し続け、晩年になっても年１０本近い舞台を演出した。そんなかけがえのない巨匠がもういないという喪失感、「蜷川ロス」が今も演劇界を覆っている。【構成＝林尚之】
●現場復帰を信じ病床には３冊の台本
昨年１２月に「元禄港歌」の稽古中に倒れて、入院した蜷川さんは、大好きだった現場への復帰を信じて、最後まで病と闘っていた。病床には最後の演出作品となった藤木直人、多部未華子主演のシェークスピア作品「尺には尺を」、森田剛、宮沢りえ主演の唐十郎作品「ビニールの城」、小栗旬主演で予定していたシェークスピア作品「ハムレット」の３冊の台本が置かれていた。
蜷川さんの死で「ハムレット」は公演中止となったが、「尺には尺を」は蜷川さんが残した演出プランをもとに、長年にわたり蜷川さんを支えてきた演出助手、舞台美術家、照明家など「チーム蜷川」とも言うべきスタッフが蜷川演出を忠実に再現。遺作にふさわしい舞台となった。
●すんでいた団地の表札「蜷川天才」
蜷川さんは俳優だったが、６９年に盟友清水邦夫作の舞台「真情あふるる軽薄さ」で演出家デビューした。しかし、仕事はなく、当時は女優として人気のあった妻真山知子さんが生活費を稼ぎ、蜷川さんは写真家の長女蜷川実花さんら２人の子育てに奮闘し、当時住んだ団地の表札は「蜷川天才」だった。その後、石橋蓮司、故蟹江敬三さんと劇団を結成したが、７４年に市川染五郎（現松本幸四郎）主演「ロミオとジュリエット」で商業劇場に進出。大胆かつ繊細な演出で高く評価されたが、アンチ商業演劇の風潮があった当時は「商業演劇に魂を売った」と仲間たちに批判されて劇団を解散。その後は大劇場を中心に活動した。
「王女メディア」で初の海外公演を行い、シェークスピア作品「リア王」「ＮＩＮＡＧＡＷＡマクベス」を本場英国で上演した。海外で熱狂的な歓迎を受け、「世界のニナガワ」と呼ばれた。一方、ＳＭＡＰ木村拓哉を唐十郎作「盲導犬」に起用するなど、ジャニーズ事務所のアイドルや、小栗旬など映画、ドラマで売れている俳優をいち早く抜てきすることで、舞台とは無縁だった若いファンを数多く呼び込んだ。
●人生経験の豊富な高齢者による舞台
また、さいたま芸術劇場の芸術監督に就任後、５５歳以上限定の高齢者を集めた「さいたまゴールド・シアター」、若手俳優の育成を目指した「さいたまネクスト・シアター」を次々と結成した。演技経験はないが、人生経験の豊富な高齢者による舞台は大きな反響を呼び、通常の舞台ではなかなかチャンスがない若手を起用することで、舞台の新たな可能性を引き出した。
年１０本の舞台を演出してきた蜷川さんの体はボロボロだった。９０年に胃潰瘍で吐血、９７年に心筋梗塞、０９年に脳梗塞で倒れ、１２年に狭心症で心臓バイパス手術を受けた。１４年の香港公演では宿泊先のホテルで下血しチャーター機で帰国した。もう演出はダメだろうという観測が流れる中、蜷川さんは不死鳥のように復活した。最晩年の蜷川さんは車いすに座り、酸素ボンベを携帯し酸素吸入器のチューブを鼻に入れた状態で稽古場に通い、現役の演出家であることに執念を見せた。
●冒頭３分間に全力「蜷川マジック」
蜷川さんは、観客を舞台に引き込むため、冒頭の３分間に全力を傾けた。色鮮やかで、意表をつく奇抜さと、玉手箱のような華やかな舞台を繰り広げ、「蜷川マジック」と称賛された。最晩年の代表作「リチャード二世」は蜷川マジックの集大成ともいえる舞台で、今年２月に「悲劇喜劇」賞を受賞した。文化勲章など数多くの賞を得た蜷川さんにとって最後の賞だった。「世界にニナガワ」だけに、海外でも蜷川さんをしのぶ声が広がり、来年、市村正親主演の「ＮＩＮＡＧＡＷＡマクベス」が英国などでも追悼公演として上演される。さらに、蜷川さんの半生を舞台化した「ニナの綿」も来年上演される予定のほか、蜷川さんがシェークスピア全作品３７作の上演を目指した「彩の国シェークスピア・シリーズ」の２代目芸術監督に俳優の吉田鋼太郎が就任。来年１２月に吉田自らが演出・主演する「アテネのタイモン」を上演する。舞台を愛し、情熱をささげた蜷川さんの精神は今も生き続けている。
◆蜷川幸雄（にながわ・ゆきお）１９３５年（昭１０）１０月１５日、埼玉県川口市生まれ。開成中・高を卒業後、東京芸大美術学部を受験するも不合格。５５年に劇団青俳に入団。俳優としてドラマ・映画に出演し、６８年に退団して現代人劇場を旗揚げし、６９年に演出家デビュー。現代人劇場を解散し、７２年に桜社を結成するも、「ロミオとジュリエット」演出をきっかけに桜社も解散。８３年「王女メディア」のギリシャ公演成功を機に世界に進出。１０年に文化勲章。妻は女優真山知子で、写真家蜷川実花さんら２女をもうける。
