一昨年3月に亡くなった桂米朝さん(享年89)は、仲間の「上方四天王」の中でも、後輩ながらに先代の実子だった故3代目桂春団治さん(享年85)を「別格」と言い、とりわけ敬意を持っていたという。

 米朝さんの長男、桂米団治(58)が11日、大阪市内で、今月28日に米朝さんの故郷、兵庫県姫路市にある兵庫県立歴史博物館で開幕する「特別展 人間国宝 桂米朝とその時代」(3月20日まで)を発表し、席上で明かした。

 同展では、59年に春団治さんが父の名跡を継ぎ、3代目を襲名した際、不器用で持ちネタが少なかった春団治さんのために、米朝さんが「親子茶屋」を書き起こして渡した自筆原稿が初公開される。昨年1月に最後の四天王だった春団治さんが亡くなり、遺品整理をしていた大阪市内の自宅から見つかったものだ。

 「上方四天王」といえば、リーダー格の故6代目笑福亭松鶴さんがおり、学者肌でもあった米朝さんが落語研究の記録を多く残し、春団治さんと、故5代目桂文枝はそれぞれ、独自の芸風で上方落語を後世に伝えてきた。四天王それぞれの役割、立場も語られているが、米団治によると、米朝さんはつねづね、年下で後輩だった春団治さんへの敬意を口にしていたそうだ。

 「彼(春団治)は特別や。2代目の御曹司やからな」が、米朝さんの口癖だった。実際、息子の米団治は、春団治さんが、年長の米朝さんに向かい、「米朝くん」と呼んでいたことを覚えており、「それも晩年になって、やっと『米朝さん』になったけど、あの辺で、はなし家の息子いうんは、すごいもんやなと思った」と振り返った。

 米団治は自らも、人間国宝の父と同じはなし家の道へ進み、父に弟子入り。一門の中でも“ボンボン”といじられ続けてきた経緯があり、以前、春団治さんについて「おやじと同じ道へ進む心得、覚悟を教えていただいた」と語ったことがある。それだけに、父と春団治さんの思い出話には、感慨深げに語った。

 実際、今回、初公開される直筆手紙のあて名は「春団治のお師匠様」と、米朝さんがへりくだって記されているといい、米朝さんの敬意とともに、持ちネタが少なかった春団治さんを支え、戦後10数人ほどからスタートした上方落語を、一門の枠を超えて盛り上げていこうとの姿勢がうかがえる。

 同展には、ほかにも米朝さんが師匠の4代目桂米団治さんからもらった遺言のような手紙や、米朝さんが観劇した芝居のパンフレットや感想記録など、展覧会初出品複数を含み、計約600点の資料が展示予定。

 同展を開催する歴史博物館の担当学芸員は、米朝さんの三男で、米団治の実弟・中川渉さん(56)。兵庫県職員の渉さんは、一昨年3月19日、米朝さんの故郷である姫路市の同館への異動を伝えられ、その5分後に父の危篤を知らせる電話を受け、同日に米朝さんは亡くなった。

 「本当に偶然、たまたまでした。姫路か…昔、よく行ったな~なんて考えながら、周囲にいた同僚に転勤の話をしていたところに、危篤の電話でした。そこからこの2年、怒濤(どとう)のようでした」と話していた。