<紙面復刻:1995年7月14日(この道

 500人の証言186・山口百恵その2)>

 【証言540】

 百恵を撮り続けた写真家の篠山紀信氏(54)

 「“山口百恵”という言葉を聞いただけで、われわれは70年代(昭45~)という時代を思い出す。70年代の日本で、百恵は特別な光を発していた」。

 戦後の50年代(昭25~)は清らかな美ぼうの原節子。続く60年代(昭35~)は、清純さと明るさの吉永小百合が時代の象徴だった。

 【証言541】

 メディア文化論の法政大学稲増龍夫教授(43)

 「60年代の小百合は純粋な清純派で、世間が求める若い女性の理想像と小百合の実像が一致していた。70年代の百恵は、生きざまに本音を貫き通した。世間の動きは、10年遅れて芸能界に波及するものだ。60年代は全共闘世代の反抗の時代だった。百恵はまさしく70年代の申し子だった」。

 1972年(昭47)12月、中学2年生で13歳の山口百恵は、日本テレビ系「スター誕生」第5回決戦大会に合格した。プロダクション11社の札が上がり、ホリプロが専属契約をした。

 【証言542】

 番組プロデューサーの池田文雄氏(61=現池田オフィス代表取締役)

 「カワイ子ちゃんがざわめく予選会の会場で、一人だけ雰囲気が違う子がいた。ジーパンにオーバーブラウスという地味な服装だったが、その表情には、やさしさや悲哀といった、日本人に受ける独特の雰囲気を感じた。最初16、17に見えたがあとで聞いたら13歳。その存在感に二重丸をつけた」。

 【証言】

 当時のホリプロ制作部長、小田信吾氏(現ホリプロ社長)

 「当時はアグネス・チャンや桜田淳子など、明るさだけのアイドルが多かった。しかし、百恵には他のアイドルにはない“陰”があった。そこに強くひかれたんです」。

 1971年(昭46)10月スタートの「スター誕生」は素人が自分で応募し、スターへの道に挑戦する過程を、同時進行で茶の間に見せた。第1回決戦大会の優勝は森昌子で、72年(昭47)6月に「せんせい」でデビューした。第4回が桜田淳子、百恵が「としごろ」でデビューしたのは73年(昭48)5月21日だった。

 【証言】

 池田氏

 「昌子は歌が抜群にうまくて、下町的な親しみやすさがあった。淳子は秋田での予選会の時、白い帽子をかぶって、他人が歌を歌っている時も首を振って一緒に歌って、スター性を感じた。百恵は静かだが存在感が抜群だった。3人を“花の中3トリオ”で売り出した」。

 戦後は美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみが3人娘と呼ばれた。中尾ミエ、伊東ゆかり、園まりの時代があり、71年(昭46)には小柳ルミ子が南沙織、天地真理とトリオを組んだ。3人娘は、時代を映し返してきた。新しいトリオは全員中学3年だった。

 二人に遅れて、百恵人気に火がついたのは2曲目の「青い果実」(73年9月発売)からだった。14歳が歌う「あなたが望むなら私何をされてもいいわ」は衝撃的だった。翌年6月の「ひと夏の経験」では「あなたに女の子の一番大切な、ものをあげるわ」とエスカレート、75万枚を売って昌子、淳子に肩を並べた。「スタ誕」審査員も務めた、作曲の都倉俊一氏(47)は言う。

 【証言543】

 都倉氏

 「いざパッと人前に立った時の存在感がすごかった。13歳か14歳なのに“私かわいい?”とこびを売らず、迎合しなかった。自分の人生の軸が見えている女性だった。時代を自分に引き付ける、強い引力を感じさせた」。

 【特別取材班】※年齢、肩書きは当時のものです。

 [2010年3月30日6時54分]ソーシャルブックマーク