10日に亡くなっていた俳優の高倉健さん(享年83)をしのび、東映京都撮影所では19日、献花台が設けられ、役者や映画関係者らが駆けつけた。「鉄道員(ぽっぽや)」(99年)「ホタル」(01年)などを製作した元東映社長の高岩淡氏(84)も姿を見せ、思い出を語った。

 「昨日から一睡もしてないんだ」。高倉さんとは同郷の福岡出身で同学年の高岩氏は、つぶやいた。「人柄もすばらしく、あんだけ体鍛えてるのに病気なんかなるって…。ほんと、オレの方が先にいくべきなのに。健さんが死ぬなんて思わなかった」と両目に涙を浮かべた。

 高岩氏は高倉さんを「先を読む名人だった」と言う。撮影で訪れたモンゴルで相撲が盛んな様子を見て、角界のモンゴル旋風を予感。米映画「マディソン郡の橋」の原作小説を読み、映画の製作前から「これ、映画にしたらおもしろい。日本では無法松の一生だな」と、後の大成功を“予言”していたという。

 人柄としては「本当に義理と人情。誠実」と言い、対人関係において差別することはまったくなかったが、ちゃめっ気も魅力的で特徴だったと振り返る。

 高岩氏が母校の九州大で映画試写会後のあいさつに立ったとき、高岩さんに黙って降旗康男監督、小林稔侍を連れ、3人でサプライズ登場。「しゃべっていたら突然、表が騒がしくなって、何?

 と思ったら、3人で入ってきた。僕を驚かそうと思ってね。うれしかったね」となつかしんだ。

 そんな高倉さんは「裏切りには容赦なく怒った」という。高校の後輩だという生徒が、高倉さんにあこがれるあまり「うちの親は捨ててでも、あなたの下で働きたい」と訴えたことがあったが、まじめな顔で叱責(しっせき)。「おやじ、おふくろは一番大事な人。そういうことは絶対に言ってはいけない」と、生徒を諭したことを明かした。

 そんな人柄をそのまま役者に反映させた高倉さんを、高岩氏は「一番役者らしくない役者だが、地の迫力があり、無二の役者」とも見ていた。「日本一の役者だった。芝居がうまいとか下手とか別で、健さんの場合は自分で試して、苦悩しながらやってきた」と話した。