プレーバック日刊スポーツ! 過去の2月17日付紙面を振り返ります。2014年の1面&最終面(東京版)は、ソチ五輪のジャンプ男子ラージヒルでの葛西紀明の銀メダル獲得を伝えるものでした。

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<ソチ五輪:ノルディックジャンプ>◇2月16日◇男子ラージヒル

 7大会連続出場の葛西紀明(41=土屋ホーム)が、真の「レジェンド(伝説)」になった。ジャンプ男子ラージヒルで銀メダル獲得。1回目に139メートルで2位、2回目も133・5メートルで合計277・4点をマークし、冬季五輪の日本選手最年長メダルとなった。7度目で初の個人メダル。日本ジャンプ界のメダルは98年長野以来4大会ぶり。亡き母幸子さん(享年48)、病魔と闘う妹久美子さん(36)にささげるメダルとなった。

 130メートルを超えて着地した瞬間、伊東、竹内、清水がランディングバーンに飛び出してきた。事態がのみ込めずぼうぜんとする葛西に「ノリさんやりましたよ!」。次々と抱きつかれた。その時点で1位。個人のメダルが確定した。直後に飛んだ1回目1位のストッホに抜かれ2位になったが、初出場の92年アルベールビル大会から22年、初の個人メダルを手にし日本史上最年長メダリストが誕生した。

 競技後のフラワーセレモニーでは、表彰台に跳び乗った。「(出身の)下川の人が来てくれていたし、たくさんの人が応援してくれていた。今までやってきたこと、つらかったことも含めてうれしさを表現したかった」。体全体で、今の思いを表した。

 金メダルまで1・3ポイント。飛距離にして1メートルもない。うれしさより悔しさの方が心を支配した。大会当日の朝、金メダル獲得のシーンをイメージしていたら「涙が出た」。銀メダルでは、涙は流れなかった。「6対4で悔しい方が大きい。金メダルじゃない」と笑みを浮かべながらも心の中は複雑だった。

 W杯王者との息詰まる戦いだった。めまぐるしく変わる風に苦しめられた他選手を尻目に、1回目にお互い139メートルを飛んだが、テレマーク姿勢をきれいに入れたストッホにトップを奪われた。2回目は133・5メートル。最後に飛んだ王者が132・5メートル。飛距離で勝りながら、1回目の貯金で金メダルをさらわれた。「テレマークの差で負けた。個人戦の金メダルを取るのは本当に難しい」と痛感した。

 9日の個人ノーマルヒル(NH)で腰痛を悪化させた。前傾姿勢をとれないほどだったが、諦めるわけにはいかなかった。98年長野五輪。直前に足を捻挫し、エース格ながらNH7位。ジャンプ界の歴史に刻まれ続ける団体金メダルに名を連ねることはなかった。

 歴史的シーンはNHのランディングバーンから見た。何にも見えなかったのは雪のせいだけじゃない。大粒の涙がこぼれていた。「原田さん、船木、岡部さん、斎藤さんにはあって、なぜ僕には金メダルがないのか」。眠れぬ日々を何度過ごしたことか。

 所属先も3社目。不況、経営破綻、厳しい社会情勢に揺さぶられた。06年トリノ五輪後、世代交代が叫ばれた。その度結果を出し、周囲を黙らせた。20歳代で引退するジャンプ選手の中で二十数年、トップに君臨し続けてきた。そして、90年の歴史がある五輪ジャンプで最年長メダル。世界が「レジェンド」と呼ぶゆえんがここにある。

 最愛の妹久美子さんは今、病と闘っている。93年に再生不良性貧血と診断された。一時は回復したが昨夏、再入院した。「妹のために」は葛西の口癖だ。手首には妹からもらった数珠のブレスレットが常にある。

 今季も2度、病院に駆けつけた。大会直前には妹からLINE(携帯電話アプリ)で「絶対メダル取れるから何も心配せずに飛んで」と伝えられた。励ますはずが、いつも励まされる。「このメダルが勇気になれば」と心を込めた。

 長野五輪の前年、母幸子さんが放火に巻き込まれて亡くなった。母からもらった手紙をいつも持ち歩いていたが、今大会は持参しなかった。「いつも弱い時に頼っていたから」。強い自分を母に見せたかった。メダル獲得直後、姉紀子さんに電話を入れた。「取ったよ」。苦しみの方が多いジャンプ人生を家族がずっと支えてくれた。

 17日(日本時間18日午前2時15分)に団体戦がある。「金メダルを狙っていく」。今度こそ「感謝」を最高に輝くメダルに変えてみせる。まだ戦いは終わっていない。

 ◆冬季五輪メダル獲得最長ブランク 葛西は94年リレハンメル大会のジャンプ男子ラージヒル団体の銀メダル以来、20年ぶりに五輪でメダルを獲得した。このブランク期間は、冬季五輪の日本勢最長記録であるだけではなく、世界的にも28年と48年にアイスホッケー男子で銅メダルを獲得したリチャード・トッリアニ(スイス)の最長記録に並んだ。夏季五輪の日本勢では、84年ロサンゼルス大会で銅メダル、04年アテネ大会で銀メダルを獲得しているアーチェリー男子の山本博の20年が最長記録となっている。

 ○…葛西が悲願のメダルを獲得した瞬間、姉紀子さん(44)は弟がチームメートと抱き合って喜ぶ姿を直視できなかった。北海道名寄市内の自宅でテレビ観戦。「涙がぶわーって出てきて。もう号泣でした」。試合後は知人、関係者からの祝福の電話や、マスコミの取材が続いたが、何時間たっても興奮は冷めなかった。

 数日前の夜、北海道・下川町にある母の墓を長女と訪れた。雪深く墓には行けなかったが、遠くから母が眠る墓に向かって「お母さん、金メダル取らせてあげて!」と叫んで懇願したという。「お母さんもきっと喜んでいるはず」と言葉を詰まらせた。

 サポートがあって、今の葛西がある。家の家計は裕福ではなく、亡くなった母幸子さんが家族5人の生活を支えていた。「お米も買えないくらい貧乏で。紀明もよく分かっていた」。同郷で2歳上の岡部孝信(43)ら先輩のお下がりを譲り受け、飛び続けた。

 だからこそ、と紀子さんは言う。「ジャンプをやめたいと言ったことはない。お金がない家ながらも、皆さんのおかげでできる。『こんなことでやめられない』って気持ちがあると思います」。葛西家では、両親も紀子さんも妹久美子さんも、海外を旅行したことがない。弟が家族分を、1人で体験してくれている。葛西の海外遠征のおみやげ話を、みな楽しみにしている。

 個人のメダルがどうしても欲しい弟のため、今大会はゲン担ぎをした。試合前の夕食にカツ丼を作り、その画像をLINEで送信して激励した。母幸子さんが生前よく作っていた甘めの味つけ。試合後すぐにソチから電話がかかってきた。第一声を聞いた瞬間、紀子さんの目から引いたはずの涙がまたあふれてきた。

 7度目の五輪で最後の戦いとなる団体戦の前には、弟が大好きなサツマイモ入りカレーを作り、また画像を送るつもりだ。

 ○…10年バンクーバー大会前の夏。葛西と1対1で2時間以上も話し込んだことがあった。はじめは雑談程度だったが、金メダル、亡き母への思いを話しているうちにどんどん熱を帯びた。メーカーにあいさつに行かなければいけないと、自分の車に乗せ会社まで送ってくれたが、車を止めると真っすぐ前を向き「母さんに誓ったんだ。金メダル」。グッと握ったハンドルがガタガタと震えるほどの強い思い。いつも陽気な葛西の心の深きふちにある悲しみを、垣間見た瞬間だった。今でも忘れることができない。

 銀メダルを獲得し、取材攻勢にあったが、記者たちがいる取材エリアでは、記者みんなを抱きしめて歩いた。「感謝を伝えたくて」。誰からも愛される理由がここにある。

 ジャンプ人生を思えば、誰よりも悲しみと失望感を抱えているはずだが、マスコミに対しても愛情たっぷりに接してくれる。取材拒否したシーンは見たことがない。

 以前、W杯に出発する前日、出発便を電話で聞いた。当日、取材に行けずに仕事先にいると電話が鳴った。「空港に来てるの?」。来てない旨をわびると「良かった。何かあったのかと思って…」。背負ってきたものが大きいからこそ優しくなれる。レジェンドはそんな男だ。

※年齢、記録や表記は当時のもの