日本体協や日本陸連の会長を歴任した青木半治氏が30日、死去した。1964年東京五輪の前から役員として活躍した日本スポーツ界の重鎮の死を、悼む声が相次いだ。

 日本陸連の河野洋平会長は「五輪のメーンポールに日の丸をという悲願をかなえるため、後進を指導し激励され、シドニーの女子マラソンでその夢を実現した。昨年のベルリン世界陸上のメダリストらが病院を訪れ、報告した際に大喜びされた笑顔が目に浮かぶ」と振り返った。

 陸連や体協で会長時代の青木氏を支えた帖佐寛章・日本陸連名誉副会長は「石橋をたたいて渡る人だが、結論を出せば猪突(ちょとつ)猛進した」と回顧。「情熱を持って陸上界の再建に尽くされた。シドニー五輪の高橋尚子の金メダルにつながる女子マラソンの強化は最大の功績だろう」とたたえた。

 青木氏が日本選手団団長を務めた72年ミュンヘン五輪に、馬術選手として初出場したのが竹田恒和・日本オリンピック委員会(JOC)会長だった。JOC委員長(当時)だった青木氏の6代後の会長となった竹田氏は「その後、自分が役員になるとは思っていなかった。体調をこわしていると聞いて心配していたが、こんなに早く亡くなるとは…」と惜しんだ。

 3週間前には陸連やJOCで選手強化に尽力した小掛照二氏が死去したばかり。男子マラソン元日本代表の瀬古利彦氏は「次から次へと大学(早大)の先輩が亡くなった」と悲しんだ。