東日本大震災から11日で丸11年を迎えた。甚大な被害を受けた岩手沿岸も、復旧工事は終盤だ。この10年間、定期的に三陸を訪れるロッテ担当記者が、かつてはガレキにも埋もれた国道45号の今を歩いた。

大船渡市越喜来地区のど根性ポプラ。津波に耐え抜いた(撮影・金子真仁)
大船渡市越喜来地区のど根性ポプラ。津波に耐え抜いた(撮影・金子真仁)

朝7時半、三陸鉄道に乗るのは3人だけ。三陸駅で降りたのは私だけ。「おはようございまーす」。駅前の婦人と、マスク越しにあいさつを交わす。100メートル歩けば、割と家もない。大船渡市北部、越喜来。「おきらい」と読む。

小さな港町に1本だけ、高い木が立つ。誰が名付けたか、ど根性ポプラ。1本だけ津波を耐え抜いた。3年前の秋の夕暮れ、東京から押し寄せた報道陣がこの木に気付くには暗すぎたか。地元のヒーローは目と鼻の先の公民館で運命のドラフト会議を迎え「ロッテ佐々木朗希」になった。


始まりの地からR45を歩く。急勾配の上り坂がいきなり5キロ。3月3日。クマの恐怖はゼロじゃない。生存本能を過敏にし2時間ほどで峠を越え、ようやく人里だ。大船渡市の立根(たっこん)地区。富山智門さん(32)に聞く。発災時は当時の職場があった内陸の盛岡にいた。

「立地的にも家族は無事だと、頭では分かっていました。でも2日後に立根の実家に着いて、家族の顔を見た瞬間、自然と涙があふれてきました」

月曜に実家の電気が復旧し、盛岡へ戻った。車で15分少々のもっと海寄りの被害状況は、断片的にしか入ってこなかったという。

加茂神社から眺める大船渡の街並み(撮影・金子真仁)
加茂神社から眺める大船渡の街並み(撮影・金子真仁)

三陸鉄道の三陸駅。駅からまっすぐ歩くとど根性ポプラが立つ(撮影・金子真仁)
三陸鉄道の三陸駅。駅からまっすぐ歩くとど根性ポプラが立つ(撮影・金子真仁)

立根からは下り坂。1歩ごとに海抜が下がる。雨が降り始め、傘とカイロを買う。「寒いですね」「心配です」。3年前に取材で知り合った人から、続けてメッセージが届いた。「震災の時、本当にたくさんのマスコミが来て」。無神経に感じる取材を受けたこともあったという。警戒されて当然だった。それだけに、あったかい。

下り坂は終わり、左に曲がれば大船渡高校だ。佐々木朗たちが甲子園を目指したあの頃、高台にそびえる学校の熱気は分かるようで分からなかった。

大船渡市内にある「仙台まで163キロ」の看板(撮影・金子真仁)
大船渡市内にある「仙台まで163キロ」の看板(撮影・金子真仁)

陸前高田の海沿い。かつて写真右側には高田松原があった。現在は左側に新しい野球場が(撮影・金子真仁)
陸前高田の海沿い。かつて写真右側には高田松原があった。現在は左側に新しい野球場が(撮影・金子真仁)

「あの時の野球部は母校の誇りです。多くの友達が、大高に入学して良かったと言っていました」

当時2年生だった亀井蒼太さん(19)が回想した。校内を興奮させた背番号1と面識はない。

「1、2回戦は学校にいたんですけど、授業中に先生にバレないようにライブ配信を見ていた友達もまあまあいましたね。ペンケースにスマホを隠して」

ビッグな先輩に負けぬよう大学で学び、気持ちを深める。「行動範囲も広がったので、少しずつできることを増やしたいです」。今も感謝を忘れない、全国や世界中からの支援。恩返しへの思いは強まる。

緩やかな上り下りの市街地を進む。「仙台まで171キロ」「170キロ」「169キロ」と意味深に感じてしまう標識の数字が、少しずつ減る。国道沿いの知人宅に寄った。震災で長女を失ったその人は、5年前の3月の夜、グラスを交えながら男泣きした。「今日、寒いでしょ!?」。豪快に笑う。コーヒー、あったかい。

帰り際に持たされたお菓子は、ロッテのパイの実。64層から成る。また峠越えが始まる。ツイッターにメッセージが届いた。「濃厚接触者になってしまって。いつかお会いできれば」。こちらこそ。その人は「良い東北を」ともメッセージをくれた。

陸前高田市に20年夏に完成した「奇跡の一本松球場」(21年3月撮影)
陸前高田市に20年夏に完成した「奇跡の一本松球場」(21年3月撮影)

21年3月、写真左半分が震災遺構のビルも残る岩手・陸前高田の旧市街地。右半分が約10メートルかさ上げされた新市街地
21年3月、写真左半分が震災遺構のビルも残る岩手・陸前高田の旧市街地。右半分が約10メートルかさ上げされた新市街地

チラッと歩数計を見た。すごい数字。登坂車線もある通岡峠で1人笑う。小雪まで舞ってきた。峠を上り切って、陸前高田市に入った。頂上で風も強まり、ちょっとした地吹雪に。もはや笑えてくる。

でもそういえば。11年前、あの日も雪が降っていた-。何度もそう聞いた。

ど根性ポプラから出発した歩き旅も、ど根性を出さずに終わりそう。ぬるい考えを陸前高田がかき消す。新市街地はかさ上げの大地に造られ、海沿いは平たい荒野が広がる。最後の直線、約2キロ。寒風を真っ正面から受け続け、あまりの冷たさに自然と涙が出る。潤む視界に、20年夏に完成した新球場が見える。

「去年、借り切ってナイターの草野球をやりました。同級生たちと久々に集まろうって話になって」

そう振り返ったのは斉藤春貴さん(26)。「陸前高田出身です」と自己紹介すると「…大変だったでしょ?」と心配そうな表情が返ってくる。何度もそれを繰り返した11年間だった。「そろそろこのやりとりがなくなるのか、あるいは、陸前高田という言葉がプラスのイメージを持たれるようにするには、自分がどうしたらいいのか」。そう、悩んでいるという。

悩む一方で「地元を誇りに思う感情は、震災がなければ考えもしなかったと思います」とも口にする。草野球は格別に楽しかった。「コロナ禍で大声を出すことを忘れてた連中が、のびのびやって。それだけで幸せなのかもって」。次回は、また仲間が帰省してくるお盆に計画している。

陸前高田市にある奇跡の一本松(撮影・金子真仁)
陸前高田市にある奇跡の一本松(撮影・金子真仁)

結局はフラフラで目的地に着いた。ど根性ポプラから奇跡の一本松まで。約32キロをほぼ7時間、ほぼ4万歩。未曽有の苦難を耐え抜いた2本の木。高く静かにまっすぐ立つ姿が、多くを伝えてくれる。

神聖な空気が漂う。今シーズンも頑張ろう-。とはいえ、今日は気が抜けた。一本松そばの道の駅、コーヒーで眠気を飛ばし、神のような知人を待った。何とか足を上げて助手席にお邪魔し、ホテルへ送ってもらう。「また来てね~!!」と笑っていた。この場を借りてもう1度。

本当にありがとうございました。

戻りつつある日常に、明るい話題の数々。誰かの涙を見ることは減ったけれど、今なお一本松に近寄れない人々だって少なくない。【金子真仁】