古田敦也は2006年(平18)、ヤクルトの選手兼任監督となった。恩師の南海野村克也監督以来、29年ぶりの兼任監督。まず取り組んだのは、ファンサービスだった。球界再編問題に奔走した経験を生かし、球団とファンと地域を近い存在にしよう。「Fプロジェクト」を立ち上げた。

球団社長に1つの進言をした。チーム名を変更しませんか? これまでの「ヤクルトスワローズ」から「東京ヤクルトスワローズ」に変えた。「ジャイアンツが東京を外しているので、取った方がいい。オリンピックが来た時に、東京といえばどこのチームだ? って聞かれて『ヤクルトだ』と言ったら気持ちいいじゃないですか。16年に来ますから」と口説いた。

16年から20年にはなったが、本当に東京オリンピックはやってくる。ヤクルトに追随するように巨人も「東京」を前面に出し始めた。「先見の明とかではないですよ。難しい話じゃなくて。得じゃないですか。だって世界中でヤクルトを売ってるんですから。ニューヨークって何があるの? って僕らも聞くじゃないですか。ヤンキース、メッツって」。こんなところにも広い視野と柔軟な思考は生きた。

古田はファンを大事にする選手だった。春季キャンプではファンの列が途絶えるまでサインを書き続けた。小3から5年間習い、2段まで到達した書道の腕前が生きた。だれのサインだか分かるように、崩しすぎない字体で「古田敦也」と漢字で記した。高井雄平が新人だった頃、たくさんの人に書くために、サインを簡略化したのを見て「読めるように書くのがヤクルトの伝統だよ」とたしなめた。納得した雄平は読めるサインへ変更し、それまで以上に丁寧にサインするようになった。

03年の広島戦で記録したプロ野球タイ記録の1試合4本塁打も、05年に到達した大卒、社会人選手出身の選手として初めての2000安打も、記念球は手元にない。本塁打のボールはキャッチした子供にサインを書いてプレゼントし、2000安打のボールにもサインをすると、坊っちゃんスタジアムの右翼席に華麗なフォームで投げ入れた。「大事にしてくれているかな?」と笑ったが、宝物となっているに違いない。兼任監督としての成績は3位、6位。心からファンを喜ばせることはできなかった。07年9月19日、明治記念館で行われた現役引退と監督退任の会見は、涙に暮れた。(敬称略=つづく)【竹内智信】