日本人選手がメジャーで活躍するのが当たり前になった平成時代だが、そこに至るには先人たちの苦労があった。通訳や代理人として日米で多くの選手をサポートし、2007年(平19)に手術で男性から女性へ生まれ変わったコウタ(56=本名・石島浩太)。女優、ギタリストとしても活動する彼女の波乱の人生と日米の野球史を振り返る。

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ダイエーでバナザード、アップショーといった実績十分の大リーガーたちと苦楽をともにしたコウタ。自身にも「世界の野球」に携わるチャンスが訪れた。

若手選手の育成を目的として行われる「ハワイ冬季リーグ」構想が持ち上がった。1992年(平4)にダイエーを退団。日本側の代表として、同リーグの立ち上げに尽力した。

ただ環境面など諸問題があり、開催はいったん白紙となってしまう。パ・リーグ各球団の意思をまとめてくれていた西武の編成トップ、根本陸夫のもとへ「申し訳ありません」と謝罪に訪れた。するとその場で「ところで石島くん、今後は何をやるの? ウチに来るか?」と勧誘され、常勝西武の一員となる。

1度は頓挫したハワイ冬季リーグだったが、コウタらが検討を重ねたのと同じフォーマットで、93年から開催されることになる。コウタは西武の選手たちを連れて幾度もハワイへと渡った。その中には若き日の松井稼頭央もいた。

95年オフにマウイ・スティングレーズでプレーした松井はある日、自軍が投手を使い切ったために登板することになった。もともとはPL学園のエース。1回を打者3人、わずか9球で終わらせた。当時20歳の若者は、勢い余って相撲取りよろしくマウンド上で手刀を切るそぶりを見せた。

ヤンキースのマイナーリーグ・コーディネーターでその時、敵軍を率いていたトレイ・ヒルマンから「相手の顔に泥を塗ることになる。絶対にやっちゃいけない」とたしなめられた。ただ松井もその後、米国へ渡り、ロッキーズではワールドシリーズ出場を果たすまでに成功した。“若気の至り”も今となってはよき思い出だ。

松井のチームメートにはロッキーズで再会することになるトッド・ヘルトンもいた。コウタは「鳴り物入りでやってきて、やっぱりモノが違った。でも稼頭央とも仲が良くなって、すごくいいヤツ。地に足がついていて、自分がスターだとは全然思ってないような感じだった」と振り返る。

ハワイ冬季リーグOBには他にもイチロー、田口壮、小久保裕紀、松中信彦、井口資仁らそうそうたるメンバーが顔をそろえる。侍ジャパン稲葉監督や、ヤンキース・ブーン監督、ブルワーズ・カウンセル監督らもそうだ。「その後、彼らが羽ばたいていった姿を見ると、冬季リーグはやっぱり意味があったなぁと思えるんです」。若き日の青春群像を思い出しながら、コウタは穏やかな笑みを浮かべた。(敬称略=つづく)【千葉修宏】

◆コウタ(本名・石島浩太)1962年(昭37)3月15日、東京生まれ。ダイエー、西武の通訳、ヤンキース業務部長などを歴任。07年に性別適合手術を受け女性に。現在は女優、俳優長谷川初範のバンド「Parallel World」のギタリスト、映像配給会社で英テレビ局の日本向け担当も務める。

ギターをつま弾くコウタ
ギターをつま弾くコウタ