プロ野球の歴史は、グラウンドにだけ刻まれるものではない。スタンドにだってある。現地観戦派のファン3人が語る、もう1つの「平成プロ野球史」。第3回は野球音楽評論家・スージー鈴木氏が球場音楽を語る。【取材・構成=秋山惣一郎】

球場内の通路を抜けると、青い空が広がり、グラウンドの緑が目に入る。のんびりとした試合前の風景。席を探す私の耳に、静かに流れる音楽が聞こえてきます。野球と音楽の相乗効果。野球を見に来た、とわくわくする瞬間です。

今、全国の球場では、応援歌、選手登場曲、球団歌など、さまざまな音楽が試合を演出しています。休日のデーゲーム。青空の下、自由で開放的な空間で野球を見ながらビールを飲み、音楽を聴く。野外フェスを楽しむ感覚です。

その意味で、平成の半ばごろまでの球場は、殺風景なものでした。グラウンドでは、野茂英雄やイチロー、松井稼頭央ら、新世代のスターが活躍してるのに、応援団の演奏は一本調子で、球団公式の歌は軍歌調、行進曲調で古くさい。「野球は球音を楽しむもの」という「野球通」の主張も依然として、幅をきかせてました。

「音楽の使い方で、野球がこんなに変わるのか」と目を覚まされた出来事があります。90年代の終わりごろ、千葉マリンでのことです。1回裏、ロッテの小坂誠が打席に向かうと、米国のロックバンド、ザ・ナックの大ヒットナンバー「マイ・シャローナ」が流れました。選手登場曲など一般的でなかった時代。球場の景色が、カラフルに変わった気がしました。球場が音楽で満たされる時代は、すぐそこまで来ていました。

2000年代半ば、球界再編問題に前後して、プロ野球を取り巻く環境は大きく変化します。

当時、地上波中継の視聴率が低迷し、中継そのものが少なくなっていた。日本ハムが北海道に移転、宮城県で楽天が誕生し、本拠が全国に展開したのも、このころです。

プロ野球は、テレビで全国区のスターを見る時代から、地元のチームを球場で応援する時代になったのです。球団は、放送権を収入の柱とするビジネスモデルから、球場にファンを呼び込み、入場料やグッズ販売などで稼ぐ方向へ転換を迫られました。

そこで音楽です。野球は、プレーやイニングの「間」が長い。野球を知らない人には、退屈なスポーツです。でも選手の登場曲に胸を躍らせ、応援歌をみんなで歌って、球団歌に合わせてジェット風船を放てば、十分に楽しめる。チケット、タオル、メガホン、レプリカユニホーム、ジェット風船。ファンは、音楽ライブの感覚で観戦し、いろんなものを買って球団にお金を落としてくれる。私も、音楽的技巧を凝らしたり、みんなで唱和できるようシンプルさを追求したり、とさまざまな応援歌を楽しみに球場へ通うようになりました。球場内の音楽が「野球のライブ消費」を促し、プロ野球のビジネスモデルを変えたのです。

今、球場の音響設備は大きく改善され、音楽の効用に自覚的な球団も出てきました。音楽との相乗効果でスポーツを楽しむ時代が来ています。

最後に、球場の演出ではありませんが、私が選ぶ「平成の1曲」を挙げます。70年代に作られたパ・リーグの連盟歌「白いボールのファンタジー」です。球界再編問題でプロ野球が揺れた04年、球場で誰かが歌い始め、アンセムの輪は、やがて全国に広がった。忘れられていた歌が「10球団1リーグ」に抗するプロテストソング、リーグ統合の象徴として復活したのです。誰に指示されたのでもない。自然発生的に生まれたところが意義深い。音楽の力を実感させてくれた、忘れられない1曲です。(この項おわり)

◆スージー鈴木(すーじー・すずき)1966年(昭41)大阪府生まれ。昭和歌謡から洋邦の最新ポップスの音楽評論を手がける。2月に週刊ベースボール誌で連載中の野球音楽コラムをまとめた「いとしのベースボールミュージック」を刊行。最新刊に「チェッカーズの音楽とその時代」。プロ野球観戦の原点は75年、大阪球場の南海-近鉄戦。現在も年40試合は球場へ足を運ぶ。

スージー鈴木さん
スージー鈴木さん